3年前、実に51年ぶりにロシアを訪問した。ソ連はペレストロイカを経て、新生ロシアに転じた大国。五輪では、ドーピング問題でゆがんだ印象を与えつつもスポーツ王国である。

その総本山は、国立モスクワ体育大学であった。今の北京体育大学同様、全国からスポーツエリートを集めていた。1975年、日大の博士課程を終えた私は、このモスクワ体育大への留学を目指した。共産主義国ソ連のスポーツ教育と「CCCP」の強さの秘密を探りたかったのだ。で、ロシア語を勉強する。

が、私の夢はかなわず、アフガンへ赴任した。モスクワ体育大は、「ロシア国立体育・スポーツ・青年・観光大学」へと名を改めていた。活躍されたアスリートや指導者たちの立派な胸像が正門前にびっしり、ロシアを代表する体育大であることを物語っていた。

最初に案内されたのは、大学博物館。各種スポーツ用具の変化、ユニホーム、メダル等、卒業生の活躍をうたう展示物に腰を抜かす。スポーツの殿堂らしくあり、勝利至上主義に走った足跡と歴史が横たわっていたかに映る。

驚いたのは、館長の説明だ。1931年、同大学は「パラシュート科」を設置したという。戦争のためにパラシュート隊員を養成した歴史を悲しく語る。それらの写真展示は、国を代表する体育大の宿命を示唆していた。

私は、同時期、日体大も「航空体育科」と「海洋体育科」を設置していたことを想起。パイロットを養成し、特攻隊員としてゼロ戦の乗組員となる。軍艦の幹部乗組員も養成した。スポーツに興じる夢など、かなうはずもなかった。

ヴィクトロヴナ学長に質問。体育大の中になぜ観光学部を併設したのかと。「スポーツも観光も平和でなければできないからです」。戦前の暗い歴史を払拭(ふっしょく)し、平和を希求する大学へと転じたと強調する口ぶりであられた。

日体大の使命の中に「スポーツを基軸に国際平和に貢献する」とあるが、戦前、戦争に深く加担した日体大の反省に他ならない。