60年代末、軍政下のブラジルであだ花のように咲いたのが異性装のパフォーマーが繰り広げたドラァグクイーン(DQ)カルチャーである。当時のスター8人の再結集と、そのステージの裏側を追ったのが、ドキュメンタリー映画「ディヴァイン・ディーバ」(9月1日公開)だ。

監督はブラジルを代表する女優のレアンドラ・レアル(35)。祖父はDQカルチャーの中核となったヒバル・シアターの劇場主だったという。幼少時から彼ら(彼女たち)の素顔に触れてきた彼女は、インタビューで本音を引き出し、楽屋の「がやがや」を生々しい映像に切り取った。映画はLGBT(性的少数者)史半世紀の一断面とも言える。

8人の代表としてディヴィーナ・ヴァレリア(74)が来日したのを機に、同時代の日本で同じように生きた女優カルーセル麻紀(75)との対談をお願いした。

-お2人は47年前にお会いになっているそうですね。

カルーセル 彼女が来日して、ちょうど私もステージに立ち始めた頃で、赤坂のラテンクオータでご一緒したんです。もう、まぶしいくらい美しかった。

ヴァレリア 彼女は仲間内ではすでに有名な存在でした。夢を追い求めて生きている勇気のある人だなと思いました。久しぶりにお会いして、今の姿を見て、その思いを貫いたということがよく分かります。

-47年前はご苦労も多かったのではないですか。

ヴァレリア そうですね。ブラジルでは劇場から一歩出たら、女装即逮捕でした。劇場の外では男の格好をしなければいけなかったんです。

カルーセル 女性の格好で外を歩けば逮捕はされないまでも「オカマ」と指をさされました。でも、それを貫きました。日劇ミュージックホールやクレイジーホースという女性しか出られないところに「女性」としてスカウトされて、その後「実は男なんです」と明かしたらマスコミが大騒ぎした。芸能人になる気は無かったけど、私が先頭に立たなければいけない、という気になったんですね。

「ディバイン-」の中にもDQの1人、エロイナ・ドス・レオパルドが76年、性別を明かさないまま、リオのカーニバルの初代クイーン・オブ・ビューティに選ばれたエピソードが挿入されている。

ヴァレリア 私もまさかステージに立つことになるとは思っていませんでした。本能のおもむくままに生きていたら、いつの間にかアーティストになっていた。地球の反対側で生きていても、どこか私たちの人生には重なるものがあるような気がします。

-お二人とも「獄中」も経験されている。

ヴァレリア 女装で逮捕されても一晩で釈放。そんなくだらなさを鼻で笑っているようなところがありましたね。

カルーセル 私の場合はぬれぎぬだった(大麻取締法などの違反容疑で逮捕されたが不起訴)んです。体は手術をして女性だったんですけど、戸籍は男だった。だから留置場では男子房に入れられて下着もトランクスをはかざるをえなかった。

ヴァレリア えっ! 男子房? それってとってもすてきなことじゃない(笑い)。私も最長13日間入れられたことがあるんですけど、隣の房にいた男性がとってもかっこよくて。出たくない! って本気で思いましたから。実は彼からこっそりラブレターをもらっていて、今でも大切に持っているんですよ(笑い)。本当に恵まれた人生っていうのはたくさんのこと、あらゆることを経験できたことだと思います。そういう意味では私たちは幸せというべきですね。

-ご家族との関係にはご苦労があったようですね。

カルーセル 迷惑かけちゃいけないので、ずっと家族のことは隠していましたね。親兄弟からも2度と家に帰ってくるな、と言われていました。でも、30歳を越えた頃、一番下の妹が結婚することになって、それまで冠婚葬祭に呼ばれたことが無かったんですけど、妹はどうしても来て欲しいって。それで初めて親類縁者の前に出ました。それからも、昼間はひと目に付くので、夜になると母がこっそりと呼んでくれるんですね。「今、兄弟が集まっているから」とか。近所の人からは「お宅の息子さんオカマさんをなさってるんですね」とか言われるから。それが嫌だから。「さん」を付けるとていねいに言ったつもりになるんでしょうけど(笑い)。

ヴァレリア 似てます(笑い)。妹の結婚式のエピソード、そのまんま私の体験です。義父がとにかく厳格な人でしたから。母は私の生き方を受け入れてくれていたんですけど、義父に依存していたので、私を家に入れることができなかった。

カルーセル やっぱり母親なのね。最初に私たちを受け入れてくれるのは。

-時代は移り、04年の性同一性障がい者特例法でカルーセルさんは戸籍上も女性になりましたね。

カルーセル 司法、病院での体のチェック、そして心療クリニックでの確認。通るまでに2週間掛かりました。途中で頭に来て、私は「やめた!」って言ったんですけど、マネジャーが手を尽くして理解のあるお医者さんを探してくれてやっとです。私は「障がい」とは思っていなかったんですけど、それを認めないと女になれなかった。でも、それが多くの人に道をつけるようになったのだ、と。

ヴァレリア 私たち8人のディーバ(歌姫)もある意味パイオニアだったと思います。これまでの活動や映画を通して、私たちのような人への見方を変えるきっかけになったのだと思ってます。私たちは私たち、同じ人間だという。後の人たちが少しでも生きやすい世の中になるようにやってきたつもりです。私は整形手術はしてきたけど、あなたのような(性転換)手術はしていない。勇気のいることだし、尊敬します。

-LGBTへの理解は深まっていると思いますか。

カルーセル 確かに私たちのことを取り上げないで、きっと化け物のように思っていたNHKも真正面からドキュメンタリーで扱うようになりました。でも、「生産性」うんぬんという議員もいる。お話にならないような感覚はまだまだありますね。

ヴァレリア 「生産性」の話はおかしいんじゃないですか。今はむしろ人口爆発で世界の行方が懸念されています。私たちの仲間には養子をとってしっかり育てているカップルが多いんです。むしろ、将来を見すえた生産的なことをしているんだと思っています。その議員の人、相当な勘違いさんのようですね。

-今回の映画はそんな偏見を笑い飛ばしてしまうようなパワーがありました。

カルーセル 映画を見ると分かるけど、地球の裏側で、しかも軍政下で同じ戦いがあったと思うと感動だし、めちゃめちゃ共感しました。

ヴァレリア 監督のレアンドラさんが、私たちが出ていた劇場のオーナーのお孫さんという縁があったんですけど、この映画を見た他の監督さんは口をそろえて、僕がやりたかった! って。今ではそれだけ普遍的な題材なんですね。

カルーセル そうですね。でも最後はやっぱり家族の問題に帰っていくんです。私たちのことをものすごく理解してくださっている女性が、いざ自分の息子がそうだと分かったときには取り乱しますから。「麻紀ちゃん、うちの息子治らへんのかなあ?」って真剣に相談受けたりしますから。

2人には、波乱の人生をさらっと語る本音のたくましさがあった。映画の見どころのひとつが終盤のステージでヴァレリアが歌い上げる「マイ・ウェイ」。豪快で繊細で、万感迫るものがある。

【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)

◆カルーセル麻紀 1942年(昭17)11月26日、北海道生まれ。本名・平原麻紀(出生名・徹男)。25歳の時「愛して横浜」で歌手デビュー。映画、テレビに幅広く出演。近作に「SPEC~翔」(12年)。

◆ディヴィーナ・ヴァレリア 1943年、ブラジル生まれ。60年代にはアルバム発売、70年代に入って俳優としても活動。軍政下、海外に活動の場を求め、フランス、イラン、日本などのステージに立った。

ディヴィーナ・ヴァレリア(左)とカルーセル麻紀
ディヴィーナ・ヴァレリア(左)とカルーセル麻紀
「ディヴァイン・ディーバ」の1場面 (C)UPSIDEDISTRIBUTION,IMP.BLUEMIND,2017
「ディヴァイン・ディーバ」の1場面 (C)UPSIDEDISTRIBUTION,IMP.BLUEMIND,2017