東京オリンピック(五輪)が23日、開幕した。公式記録映画の監督を務める、河瀬直美監督(52)は18年秋の就任後、新型コロナウイルスの感染拡大による大会の1年延期など、激動の日々を見つめ、フィルムに刻み込んできた。大会開催までの道のりだけで、400時間超も撮影し、開幕後は各競技を追いかける河瀬監督に「五輪記録映画を作ること」について尋ねた。第2回は、取材の中で知った、1964年(昭39)の東京大会の事実と、現状と重ね合わせて見据えるもの。【取材・構成=村上幸将】

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東京五輪は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、20年3月に1年の延期が決定して以降、開催の是非が問われ続けてきた。政府は同4月、今年1月、4月と緊急事態宣言を発出も、感染拡大に歯止めが利かず、休業を要請された飲食店や映画、舞台、音楽をはじめとした文化、芸術系の業界の関係者からは、政府や休業を要請した東京都への疑問、批判の声が相次いだ。さらに、その矛先は東京五輪にも向けられた。

そして7月12日には東京都に対し4度目の緊急事態宣言が発出され、東京五輪は緊急事態宣言下での開催を余儀なくされた。8日の首都圏を皮切りに札幌、福島と無観客開催が相次いで決定され、東京五輪開催への疑問の声は、さらに高まった。23日の開会式の最中、新国立競技場周辺ではデモまで起きた。日本社会が分断の様相を呈する中、河瀬監督は東京オリンピック公式記録映画の撮影、取材を続ける中で「平和の祭典」と呼ばれた1964年(昭39)の東京五輪の開催直前も、日本社会は混乱していた事実を確認した。

河瀬監督 実はですね、57年前も大混乱しているんですよ。それは、当時の都市形成というところにも影響していった、政治の混乱が、すごくあって。当時の1番の問題は、道路事情でした。東京都の道路は、雨が降れば、ドロドロになるような道で、世界の人々を受け入れるような道路事情ではなかったんです。羽田から都内に行くのにも2時間くらいかかって…そこで、代々木に首都高が建設されたんです。首都高をはじめ、整備された道路はレガシーという感じで経済効果にもつながりました。

64年10月10日の東京五輪開幕に合わせて開業した東海道新幹線を含め、整備された交通インフラはレガシーとなり、高度経済成長の象徴ともなった。ただ五輪の研究者を取材し、道路建設に対して反対の声が多かったという事実を知った。

河瀬監督 64年に東京五輪が開催された時に生きていなかった私たちにとって見れば「平和の祭典」ということになっていますけれど、五輪をずっと研究されている大学教授にも取材を重ねていて、大会が始まる前は反対している人が、すごい多かったというんです。当時、日本は戦後20年くらい。経済成長が地方まで行き届いて豊かだったかというと、そんなことはない状態だった。

道路事情と未曽有のパンデミック…混乱を招いた原因も、次元も違う。ただ、河瀬監督は世界的なメガイベントを行う際には賛否両論あるものだと指摘する。

河瀬監督 コロナ禍の今は、事態は命に関わる、医療が崩壊するということなので、反対の意見が非常に多くあるかとは思うんですね。もちろん、事情は違うんですけれど、開催前に(国民の間から批判の声があって開催に持っていった)流れは一緒と言ってもいい。私自身は、開催してから東京五輪がどう見えるか、もう少し未来に現状がどうなっているのか、というところに興味があるというか、そこまで見ていきたいと思っています。

その上で、河瀬監督は、こう続けた。

「ドキュメンタリーで、これだけの規模のものを作ることが出来る機会は、もう多分、生涯を通して最後になるかなと思っています。この2年間、他の映画を作るということは一切、考えず、これに集中していますが(コロナ禍で)映画の現場も、思うように撮影が出来ない時間をずっと過ごしているのが、実際のところです」

ドキュメンタリー畑出身で、ここ2年、東京オリンピック公式記録映画の撮影、取材に没頭しつつも、劇映画が主戦場である河瀬監督にとって、コロナ禍で苦しい状況に追い込まれている映画業界の、当事者の1人である。

次回は、東京五輪公式記録映画と自身の劇映画に通底する、作品作りへの考え方を語る。