21年に結成40周年を迎えた、サンミュージック所属のブッチャーブラザーズが1日、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期していた「ブッチャーブラザーズ40周年+1記念単独ライブ 副社長とコミッショナー」を東京・なかのZERO小ホールで開催する。開演前に囲み取材に応じたリッキー(63)と相方ぶっちゃあ(67)は、かつての弟子だったアンジャッシュの2人に、ライブで出直しを図るよう、強く勧めた。

ブッチャーブラザーズは、東映京都撮影所の大部屋俳優からキャリアを始め、知り合った森田健作の付き人兼マネジャーとしてサンミュージックに入所。1980年(昭55)にコンビを結成も、83年にサンミュージックがお笑いから撤退したためプロダクション人力舎に移り、養成所スクールJCAで指導。1期生にアンジャッシュ児嶋一哉(49)、2期生には渡部建(49)がいた。

リッキーはは囲み取材で、育てた後輩、弟子で化けた人材は? と聞かれると「本当は、児嶋と渡部、アンジャッシュは人力舎時代に、僕らがしっかりと正式にお笑い講師として教えた第1号。」と答え、ぶっちゃあも「児嶋と渡部は師匠も弟子も、お互い初めて」とうなずいた。

リッキーは「最初、児嶋は、あいさつは出来ないわ。昼ころまで家を出ないで毎日、パチンコに行っているわ」と、お笑いを学んでいた頃の、児嶋の自堕落な様子を振り返った。その上で「児嶋がお笑い学校に、朝起きて、お母さんが弁当作って、きちんと来るようになった。ぶっちゃあさんが、そのあたり厳しくして、お母さんが八王子から菓子折り持って『うちの子が普通の生活をするようになった』と」と、ぶっちゃあが児嶋を生活面から指導したと明かした。

児嶋はコンビでお笑いを始めたが、1、2人目の相方を上手くいかなかったという。ぶっちゃあは「2組、組んだが、うまくいかなかった。1年後くらいに『高校の同級生なんですけど』って連れてきたのが、渡部だった」という。リッキーは「渡部は(児嶋と)まるで違っていて如才なく、あいさつもでき、きちんとしていた」と振り返ったが「それが、どこかでゆがんでいったんでしょうね」とくぎも刺した。それには、ぶっちゃあも「そこは、言わんといてもいいところ」と突っ込んだ。

そして、ぶっちゃあは「ライブ、やった方が良い。ネタをやると楽しい。今日、ゲストに来てくれたら…」と力を込めた。リッキーも「ヘタにテレビ出ると、反発を食らう。まず本人達がコンビで、ヤジを飛ばされても、コンビでやっていると…芸が救う。(コンビ間の関係、コミュニケーションも)ネタでぶつかると余計な話にならない。」と続けた。

渡部は不倫騒動で20年6月9日に活動を自粛し約1年8カ月、謹慎していたが、冠番組の千葉テレビ(チバテレ)「白黒アンジャッシュ」2月15日放送回を使って謝罪し活動を再開した。ただ、相方の児嶋の顔をまともに見ることも出来ず、下を向いてばかりで、コンビの将来を案じる声が出ている。ぶっちゃあは師匠として「いろいろ、あると思うけれど、まずライブをやった方が良い。。ネタの稽古を1カ月くらいやると、しんどいんですけど、楽しいですよ、お客さんに見てもらえるし、相方と向き合える。何だったら、今日でも、ゲストに来てくれていい」とライブの再開を勧めた。

リッキーも「番組関係者で、何とか手を差し伸べて復活させようという人とは相反するかも知れないけれど、テレビに出ると、反発を食らう。まずはしっかり、コンビとして舞台をやって、客席からヤジを飛ばされても、ちゃんとコンビでやっているんだと見せて欲しい。芸人を救うのは、やっぱり芸だと思います。地味にやらないと」と訴えた。

ブッチャーブラザーズは、フリーだった98年、サンミュージックが新世紀お笑いプロジェクト「プロジェクトGET」を発足させた当時、プロデューサー就任を含めて打診された。渡部と同期だった弟子のダンディ坂野(55)を引き連れて復帰すると、定期ライブの開催を提案した。

その中で、坂野がNHK「爆笑オンエアバトル」で頭角を現し、カンニング竹山(50)がキレ芸で日本テレビ系「エンタの神様」でブレイク。他事務所で芽を出しきれなかった芸人がサンミュージックでブレイクし、メイプル超合金のカズレーザー(37)の活躍に続く、お笑いという軸を同社に作った、いわば中興の祖とも言うべき存在で“東京お笑い界の父”との声もある。リッキーは、本名の岡博之として21年4月からサンミュージック副社長に就任。ぶっちゃあは、2006年(平18)に、お笑い芸人草野球リーグ「Gリーグ」を主催し、コミッショナーとしての顔も持つ。

2人は囲み取材後に、改めて取材陣からアンジャッシュ完全復活の可能性を聞かれると、リッキーは「ちゃんと、やれば復活できる。芸の基盤がしっかりしている」、ぶっちゃあも「ネタ、面白いんですよ。ネタ、やって欲しい…そう書いてください」と声を大にした。