9月28日夜、NHKのニュースを見ていると、翌29日に中国に返還されたジャイアントパンダのつがい、雄リーリーと雌シンシン=いずれも19歳=を最後に一目見ようと、東京・上野動物園に駆けつけた人々の模様を報じていた。
17年に雌のシャンシャン、21年には同園で初となる双子の雄シャオシャオと雌レイレイが誕生するなど、日本に大きなものを残した2頭への「ありがとう」という言葉や惜別の涙が次々と報じられた。そうした思いは、よく分かった。記者もリーリーとシンシンに救われたからだ。
2頭は繁殖研究目的で上野動物園に貸与され、11年2月21日に来日した。ところが、同年3月11日に東日本大震災が発生し、同園は3月17日から臨時休園を余儀なくされた。2頭が一般公開されたのは、同園が再び開園した4月1日で、記者は朝から取材に行った。リーリーとシンシンは、パンダ舎の前に大勢の観客が鈴なりになっていても、緊張したようなそぶりもなく、ササをムシャムシャと食べていた。あどけない姿に、カメラのシャッターを切り続けた。
翌4月2日付紙面に掲載された原稿には東北、関東の各地から東京に避難し、2頭のパンダを見に足を運んだ人々の声を書き込んでいた。中でも、福島第1原発の事故後、風評被害などで苦しんでいた福島県いわき市の人々の叫びは深刻だった。
「津波と地震に原発、風評…。いわきはボロボロ。でも少し気晴らしになります」
「原発が怖い。ストレスがたまっていたので、動物園でいい気分転換ができました」
被災した人々の話を聞き、原稿を書いていた記者も当時、かなり打ちのめされていた。震災発生直後から、大ホールが崩落した東京・千代田区の九段会館を取材し、その後、被災した東北に向かった。人の生死を目の当たりにした場面もあった。震災発生後も大きな余震が断続的に発生し、取材中に身の危険を感じ、その場から逃げた瞬間もあった。
その中で、被災した人に取材し、厳しい状況を語っていただき、書くことを連日、繰り返していることが、そうした方々の心の傷に、塩を塗りたくるような行為ではないかと良心の呵責(かしゃく)を覚えていた。被災した各地域では、人々の往来が多いところに、地域住民が炊き出しなどの情報を書き込める、回覧板のようなものができ始めており、そこには炊き出しや薬や生活用品の配布など、被災した方が必要な情報が書き込まれていた。「我々メディアは、何の役にも立っていない、無力な存在だ」と痛感させられた。
交代の記者と入れ替えで帰京する最中には、家や家族を失い、変わり果てた街でも生活し、人生を歩んでいかねばならない方々とは違い、自分は東京に戻れば帰る家があると、ふと思った。そこからは、自分の取材に真っすぐに応じてくれた、被災した皆さんの顔が脳裏に浮かんでは、自分を責めるようになっていた。震災取材の期間が一定以上、長く続いたため休むよう言われ、5日間の休暇も与えられたが、毎晩、被災した東北の各県の惨状や、激しい余震に逃げた際の様子などを夢に見た、寝られなくなっただけでなく、寝室から一歩も出ることができなくなっていた。そんな中、現場に復帰するなら、最初の現場として行ってみないか? と打診を受けたのが、リーリーとシンシンの初公開だった。
あれから、13年…。16年の熊本地震や各地で発生した台風や大雨など、日本には災害が相次いだ。今年に入ると、能登半島が地震と大雨で甚大な被害を受けた。20年にはコロナ禍もあった。景気の悪化に、物価上昇…日本には、さまざまな苦境、苦難が訪れた。その折々に、リーリーとシンシンは、日本全国に明るい話題を提供していたと言っても、過言ではないのではないだろうか?
初公開後、リーリーとシンシンを見に行ったのは、連れて行ってほしいとリクエストがあった数回にとどまった。それでも、中国への返還が報じるニュースが流れると、食い入るように見てしまった。初公開を取材したあの日から、記者の心の中には、リーリーとシンシンがいたのだろうし、この先も、きっと居続けるのだろう。【村上幸将】



