「仁義なき戦い」などの任侠(にんきょう)映画や、数々の時代劇をヒットさせ、映画界のドンと呼ばれた東映の名誉会長、岡田茂(おかだ・しげる)氏が9日午前5時55分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。87歳。故鶴田浩二さん、高倉健、菅原文太ら多くの映画スターを育て、日本映画の全盛期を築いた。

 好きな映画は「ゴッドファーザー」。最期まで悠々、毅然(きぜん)とし、まさに映画界のドンだった。2年ほど前には加齢で両足の具合が悪くなったが、車いすに乗って半年間は毎日出社したという。しかし、06年に名誉会長になって以降、社業に口を出すことはしない潔さがあった。口は出さずとも、岡田氏の存在そのものが東映だった。

 5年前に受けた白内障の手術の影響で視野狭窄(きょうさく)も出てきたが、今年3月までは元気な様子だったという。4月に肺炎を患い、同月半ばに入院した。本人の意向で家族以外の見舞いを断っていたのは、周囲に気を使わせないようにという岡田氏の気づかいだった。そして、9日、長男で社長の裕介氏や長女でコメンテーターの高木美也子さん、次女ら見守る中、息を引き取った。20年近く岡田氏の秘書を務めてきた樋口保氏は「お見事でした」と最期を語った。

 岡田氏は東大卒業後、東映の前身、東横映画に入社し、製作現場から歩んだ。当時は俳優の発言力が大きく、片岡千恵蔵、月形龍之介らスターの了解がなければ映画はできなかった。しかし、ものおじしない性格と、いい作品を作りたいという熱意が、周囲を説得させていった。入社3年後には初プロデュース作「日本戦歿学生の手記

 きけ、わだつみの声」を手掛け、14年目には京都撮影所の製作課長に抜てきされた。

 さらに、鶴田浩二さんの「人生劇場・飛車角」や、藤純子(現富司純子)の「緋牡丹博徒」などのシリーズで「任侠路線の東映」を確立させた。「日本侠客伝」「網走番外地」シリーズでは高倉健が不動のスターになった。その後、菅原文太主演でヤクザの抗争を描いた「仁義なき戦い」が大ヒットし、実録ものとしてシリーズ化された。娯楽映画に徹し、常に「感動してわくわくする映画」を目指した。

 ヘビースモーカーだった岡田氏は71年、47歳の若さで社長に就任した時、たばこをきっぱりやめた。映画界への尽力を誓ったからだった。70年代から90年代、日本映画界は長い低迷を味わったが、岡田氏は日本映画製作者連盟の会長、映画産業団体連合会の会長を通算30年務め、地道に日本映画を復興させた。岡田氏の影響、精神は今の好調な日本映画に脈々と受け継がれている。

 ◆岡田茂(おかだ・しげる)本名同じ。1924年(大13)3月2日、広島県西条町(現東広島市)生まれ。東京帝大(現東大)経済学部卒業後の47年に東横映画(現東映)に入社。51年に東京映画配給、太泉映画との3社合併で東映となった後、61年に京都撮影所長兼制作部長、62年に取締役東京撮影所長を歴任。71年8月に47歳で社長に就任し、93年に会長に就任。その後、相談役を経て06年から名誉会長。84年に藍綬褒章、95年に勲2等瑞宝章を受章。家族は夫人と1男2女。

 ◆葬儀日程

 ▼通夜

 10日午後6時▼葬儀・告別式

 11日午前11時▼場所

 東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で▼喪主

 妻彰子(あやこ)さん