★元衆院議長で元自民党総裁などを歴任した河野洋平が死去した。元経企庁長官・船田元はネットに「河野洋平先生のご逝去を悼む」とした一文を寄せ「自民党総裁にはなったが、ついに総理大臣にはなれなかった。一度は総理になってほしかった政治家の一人である。細川護熙総理との深夜の政治改革合意では、実に堂々としていて、どちらが総理か見紛(みまが)うほどだった」と記している。貫禄、迫力、説得力、自民党の重鎮であり政界のリベラル議員の大きな一翼を担っていた。
★自身も過去のインタビューで「僕のした一番の大仕事は、自民党が下野した10カ月後の94年6月、社会党とさきがけとの連立をまとめあげて(自民党を)政権に復帰させたことです。これは自民党の中で護憲など一貫してリベラルな主張を通してきた僕でなければ村山さんを説得できなかったという自負がある。自民党が政権与党に復帰するにはあの方法しかなく、まさにワンチャンスでした」と認めている。またその下野する前、93年8月4日。宮沢内閣の官房長官の時には調査チームを作り「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」。いわゆる河野談話を発表。「慰安所は当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲などが直接これに加担したこともあったことが明らかになった」とした。
★当時の首相・宮沢喜一は外相時代、73年の金大中事件の決着のため最終的な日韓政治決着をまとめた。日韓関係の一定の信頼関係はあったと見るべきで、昨今の官房長官は都合の悪いことは答えるべき事案でも「発言を差し控える」と逃げまくり、首相は付け焼き刃の知識と情報で外交に臨み大やけどを負う。政府や官邸に方向性と見識が明確にあった政治が行われていた。晩年、衆院議長時代は野党とも分け隔てなく付き合い、引退後は日中関係に尽力。月末にも膠着(こうちゃく)した日中関係打開のために訪中予定だった。(K)※敬称略


