またもや繰り返された自民党の「政治とカネ」をめぐる問題が、「場外戦」の様相となっている。安倍派(清和政策研究会)や二階派(志帥会)の裏金事件に、岸田文雄首相が先日まで会長を務めた岸田派(宏池会)でも元会計責任者が略式起訴される事態となり、岸田首相が1月18日に唐突に宣言した「岸田派解散」が、安倍派や二階派の解散という流れを生んだ。本来、明らかにならなくてはならない裏金事件の本質が置き去りにされたまま、首相が仕掛けた派閥のあり方をめぐる「劇薬」(関係者)の影響で、自民党内は大混乱に陥ったままだ。

安倍派で座長を務める塩谷立氏は、解散を発表した19日夜の記者会見で、岸田派解散の影響が自派の解散に「影響があったと思う。あれで加速化したと思う」と認めた。1979年(昭54)の「清和会」旗揚げ以来、45年の歴史が、裏金事件であっけなく幕引きとなる結末。ある自民党関係者は「かっこ悪いったらありやしない」と怒りをにじませた。

派閥という存在はこれまで、何か問題が起きるたびに不要論が出た。「派閥では政策集団だ」という言い訳のような言い回しも長年聞いてきたが、結局、今の自民党の各派閥はゾンビのように生き残ってきた。だからこそ、今後も形を変えながら生き残るのではないかという警戒の目がなくならないのだと思う。

安倍派「終幕」の記者会見を終えて思い出したのが、野党転落中だったころの最大派閥のさみしい姿だ。2011年2月、それまで事務所が置かれていた旧グランドプリンスホテル赤坂の旧館が閉館されることを受けて、その場所で行われた最後の議員総会を取材した時のことだ。

清和会は旗揚げ以来32年間、同ホテル内に事務所を置いてきた。清和研になった後も2000年以降、森喜朗氏、小泉純一郎氏、安倍晋三氏、福田康夫氏と歴代首相を輩出していたが、2009年の政権交代に伴う野党転落で所属議員の数は激減。最後の議員総会が行われた2階「サファイアホール」に集まったのは、わずか約30人だった。当時は自民党議員そのものが181人減の119人まで激減し、当時の清和会も45人で党内最大派閥だった。当時は、衆院議長を務めた町村信孝氏が派閥を率いた「町村派」の時代だったが、野党転落の悲哀を感じずにはいられない、自民党の落日を象徴するシーンだったことを記憶している。

その場で町村氏は「諸先輩の努力の中、自民党の中核としてやってきた。誇りを持っていい」と出席者に呼びかけ、同所での「最後の昼餐」には、ステーキ重が供されたことを覚えている。この時に事務所が移転した先が、昨年12月19日に東京地検特捜部の強制捜査が入った、党本部近くの雑居ビルの一室。それまでより規模も縮小された。

この時はホテル閉館に伴う移転ではあったが、当時野党だった自民党の派閥では、こうした事務所の規模縮小が少なくなかった。人事もカネも思うように動かせない中では、それまでの「派閥不要論」の批判も消えがちになるほどだった。

そんな悲哀を味わった3年あまりの日々から、2012年の衆院選で政権交代し、「数の力」を再び手にした自民党では、悲哀の時代の時間を取り戻すように派閥の活動が再び活発になった。人事とカネを力に所属議員の囲い込みも激化。再び「全盛期」に入っていき、総裁選や内閣改造などで存在感をみせ続けてきた。しかし裏金事件をきっかけに、今回、安倍派など主要派閥が解散に追い込まれる「強制終了」に近い事態。「かっこ悪い」という評価にうなずくしかない。

ただ、最大派閥でも45人しかいなかった野党転落時の悲哀の時代を含めて、派閥というものが脈々と受け継がれてきたことは間違いない。今回の問題を受けても、「自民党の力のもとは派閥政治だ」と豪語する声も耳にした。そんなに簡単に派閥が解消されるのだろうか。「ゾンビ」たちの今後という「場外戦」からは、目を離してはいけないと感じる。【中山知子】(ニッカンスポーツ・コム/社会コラム「取材備忘録」)