NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史が注目されています。ドラマでは中川大志さんが演じる畠山重忠は、武勇に優れ、清廉潔白な人柄から「坂東武者の鑑(かがみ)」と称された人物で、源頼朝からも目をかけられていました。

ところが、ささいな出来事をきっかけに非業の死を遂げます。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で畠山重忠を演じる中川大志
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で畠山重忠を演じる中川大志

平治の乱後は平家方についていた畠山氏

畠山重忠は、長寛2年(1164)に、畠山重能と江戸重継の娘との間に生まれた。畠山氏は、重忠が源頼朝につくことから、最初から源氏方と思われやすいが、実はそうではない。確かに、畠山氏は、頼朝の父・源義朝の家人だったこともあったが、義朝が平治の乱(1159年)に敗れてからは、平家の家人として時を送ることになる。

重忠の父・重能も武蔵国だけでなく、京の都で過ごすことが多かったと思われる。武蔵国では、秩父平氏の代表格である河越重頼が留守所総検校職として権力を持っていた。それに、対抗するために、畠山重能は、江戸氏の娘をめとったのだろう。重忠の誕生は、政略結婚の所産といってもよいのかもしれない。

少年・青年期の重忠は、父と共に京都に行ったり、地元・武蔵に戻ったりの生活を送っていたはずだ。重忠には、音曲の才能があったとされるが、それも長きにわたる在京の間に身につけたものだろう。平穏で満ち足りた日々を覆したのが、治承4年(1180)8月の源頼朝の挙兵だった。重忠は、平家方であったので、頼朝の反乱を鎮圧する立場であった。

重忠の初陣は、同年8月下旬の由比ケ浜における三浦氏との戦であったが、彼はこれに敗北してしまう。しかし、これに我慢ならない重忠は、江戸氏などに援軍として来てもらい、三浦氏の本拠・衣笠城(城主は三浦義明)を攻め、攻略するのである(義明は敗死)。

石橋山の戦いで大敗し、窮地に立った頼朝であったが、上総広常、千葉常胤といった大豪族を味方につけ、盛り返していく。重忠は、このまま平家方でいるのか、頼朝に寝返るのか、決断を迫られることとなる。

重忠が下した決断は、頼朝に味方することであった。頼朝の勢力が増すなかで、平家との関係を絶った重忠の決断は、後の歴史を見れば、正しいものといえよう。しかし、不利と悟れば、主従関係を変えることは、平安末・鎌倉時代のみならず、中世全般に見られることであり、重忠もそれを実践したにすぎなかった。とはいえ、こうした経緯があったので、頼朝は重忠を心の底から信用したわけではなかった。

養和元年(1181)には、頼朝の寝所を警護する御家人11人(この中には、北条義時もいた)が選ばれているが、重忠はそこには入っていない(重忠の従兄弟は入っているにもかかわらず)。

ただ、頼朝は重忠を遠ざけていたばかりではなく、鶴岡八幡宮での神楽には重忠を同行させ、今様を歌わせたりした。元暦元年(1184)には、源義経軍に加わり、敵対する源(木曽)義仲の討伐戦(宇治川の戦い)に参戦している。


代官が不正を働き、囚人となった重忠

文治3年(1187)、順風満帆の重忠に危機が訪れる。重忠が地頭を務めていた伊勢国治田御厨。その代官の内別当真正が、員部郡大領家家綱の所従の屋敷を追捕し、資財を没収するという事件を起こし、訴えられたのである。この事件の裁決は、とても厳しいものであり、重忠は頼朝の命令によって、囚人として、千葉新介胤正に預けられることになった。

重忠は「代官の行為については、知らなかった」と弁明するが、受け入れてもらえなかったばかりか、所領を4カ所も没収される。重忠は1週間ほど寝食を断っていたという。また、一言も発しなかったといわれる。

無実を証明するために、このような行為に及んだのだろうが、頼朝への抗議の意思もあったかもしれない。重忠を預かる千葉胤正は、その様子を見て、「早く許してやってください」と頼朝に願い出た。頼朝はその話を聞き、心を揺さぶられたのか、重忠を許すことにする。

重忠は釈放されてから、周りの同僚に「新たな所領をいただくときは、力量ある代官を求めるべきだ。そのような者がいなければ、その地を頂戴すべきではない。私は清廉なことについては、他人を超えると思っていたが、代官の真正の不義により、恥辱を受けた」と語ると、すぐに武蔵国に帰ってしまう。

しかし、この行動が「重忠謀反」の疑いを招く。

悪いことに讒言(ざんげん、告げ口)の常習として知られる梶原景時が頼朝に「重忠は、重科を犯したわけでもないのに、拘束されたことは、これまでの大功を捨てられたようなもの、そう言って武蔵国に引きこもりました。謀反の風聞もあります」と言ったものだから、事態は緊迫。頼朝は、使者を遣わして事情を問うか、すぐに討手を派遣するべきか、有力御家人らに対策を練ることを命じる。

御家人たちは「重忠は道理をわきまえた男。謀反は間違いでしょう。使者を遣わし、重忠の心を確かめるべきです」との結論に達し、重忠の友・下河辺行平が使者に選ばれた。


自害しようとした重忠

重忠は、行平から事情を聞き、謀反の疑いをかけられていることに激怒。頼朝が行平を派遣したのも自分を殺すためだとして、自害しようとする。

しかし、行平は重忠の手をとり、「貴殿は『うそは言わない』と自ら言っている。私もまた誠の心を持つ者。貴殿を殺すつもりならば、謀(はかりごと)など用いぬ。貴殿は平良文の子孫。私も藤原秀郷以来、4代の将軍の子孫だ。殺すつもりならば、それを明らかにして、貴殿と戦うのが面白い」と言い、重忠の自殺を思いとどまらせた。

鎌倉に参上した重忠は、自身の思うところを述べて、頼朝と和解したという。こうして重忠は、人生における危機の1つを乗り切ったのである。

危機を乗り切った重忠は、有力御家人としてさらなる活躍をしていく。奥州藤原氏攻め(1189年)で活躍したこともその1つだろう。頼朝の上洛時には、先陣を務めていることからも、頼朝の重忠への信任がわかる。

頼朝死去後は、いわゆる「鎌倉殿の13人」の中には入ってはいないものの、有力御家人として、北条氏にくみし、梶原景時や比企能員を滅ぼす側に回っている。

しかし、自らが討伐される側になるときがやってくる。それは、元久元年(1204)11月のささいな出来事が原因だった。

京都の平賀朝雅の邸で、3代将軍・源実朝の妻となる女性(坊門信清の娘)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が催された。その宴会中に、平賀朝雅と畠山重保(重忠の嫡男)が口げんかをしてしまう。

同僚が2人をなだめたために、刃傷沙汰になることはなかったが、朝雅には遺恨となり、妻の母である牧の方(北条時政の後妻)に畠山氏のことを讒言。牧の方は夫・時政にそのことを話す。時政も有力御家人の畠山氏をこの機会に葬りたいと考えていたのだろう。畠山親子に謀反の疑いありとして滅ぼすことを決意する。


北条氏が畠山氏を滅ぼした理由

元久2年(1205)6月22日、鎌倉中が騒がしくなる。同時に、謀反人征伐の報も流れた。畠山重保はこれを聞いて、急ぎ参陣しようとするも、時政の命令を受けた三浦義村によって、包囲され、殺されてしまうのだ。余談となるが、三浦義村にしたら、畠山氏らの攻撃によって殺された祖父・義明の敵をとった思いだったろう。

さて、重忠も武蔵国の邸から鎌倉に向かおうとするが、待ち受けていた北条方の大軍とぶつかる。重忠は奮戦するも、ついに矢に当たり、最後には首を斬られた。

北条氏はなぜ畠山氏を滅ぼしたのか。時政は政所別当として武蔵国の国務を執る立場であり、重忠は同国の惣検校職にあった。重忠を排除して、武蔵国への影響力を強めたいという時政の野心がこの合戦の背景にあると思われる。しかし、時政の野心は、息子・義時との対立を生み、結果的には、自らの身を滅ぼしてしまうこととなる。

【濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家】