日本ではバブル景気が幕を開け、リクルート事件が火を噴き、昭和天皇の病状が懸念された1988年(昭63)。民主化運動が燃え上がる韓国でオリンピック(五輪)が開かれた。国と五輪を考える企画の第2回は、バサロ泳法の鈴木大地(現スポーツ庁長官)が水泳・背泳ぎで金メダルを取ったソウル大会について、京大の小倉紀蔵教授(東アジア哲学)を訪ねた。【秋山惣一郎】

    ◇    ◇    ◇

79年、朴正熙大統領が暗殺された。80年、混乱に乗じ、クーデターによって軍を掌握、政治への圧力を強めた全斗煥は、戒厳令の拡大、民主化を求める民衆の弾圧(光州事件)を主導した。その後、大統領に就任する。国際オリンピック委員会(IOC)総会で、ソウルが名古屋を破り、88年の五輪開催地に決まったのは、そんな時代。81年9月だった。

小倉教授 全大統領は、経済やスポーツなど国民受けのいい政策に力を入れたので、当初の評判は、さして悪くなかった。ソウル大学の定員を増やしたことが特に効果的だった、などという話もある。五輪は国威発揚と同時に北朝鮮との競争に勝つための戦略であり、民衆弾圧を覆い隠す意図もあったと思います。だが、光州事件の真相が次第に明らかになり、民衆の反政府感情が高まります。

86年、ソウルでアジア競技大会が開かれる。韓国は中国に次ぐ金メダルを獲得。ソウル五輪に向け、弾みをつけた。一方、民主化を求める反政府デモは過熱。政権は追い込まれていく。

小倉教授 韓国は、82年のニューデリー、86年のソウルとアジア大会で躍進。政府の統制下にあったテレビは「五輪では、我が国がアジアでナンバーワンになる」と盛んにあおっていた。バブル前夜の日本は高度成長期の勢いがなく、中国も改革開放路線が始まったばかり。「韓国にこそ未来がある」と宣伝していました。だが、民衆は「国民を弾圧する政権が五輪などとんでもない。五輪より民主化を」と訴えていました。

ソウル五輪を1年後に控えた87年、学生運動家の拷問死事件が発覚。民衆の怒りは頂点に達し、デモ参加者は100万人にのぼった。五輪のロサンゼルスでの代替開催も検討される中、全斗煥の後継者で、五輪組織委員長の盧泰愚は6月、直接選挙による大統領選出を柱とする民主化を宣言せざるを得なくなる。11月には大韓航空機撃墜事件が発生し、乗客乗員全員が死亡。国内は大混乱に陥った。

小倉教授 70年代までの北朝鮮は余裕があり、非同盟国のリーダー的な役割を担っていた。韓国は米国の傀儡(かいらい)という性格が強く、経済的にも立ち遅れていた。だが70年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げ、五輪開催も決まった。焦った北朝鮮で実権を握っていた金正日は「韓国をたたきつぶす」と83年のラングーン(現ヤンゴン)爆弾テロ事件、87年の大韓航空機撃墜事件を引き起こす。全大統領暗殺、ソウル五輪妨害を計画していたと言われています。国内の政情不安に加えて、北朝鮮の破壊行動も活発化し、当時の朝鮮半島は何が起きても不思議ではなかった。私は88年3月、韓国に留学しましたが、現地では五輪開催などとても無理だと誰もが考えていたし、話題にもならなかった。

88年2月、直接選挙により、盧泰愚が大統領に就任。軍事政権の基盤固めとなるはずだったソウル五輪は、皮肉にも民主化の引き金となって9月17日、開幕した。

小倉教授 1年前までの政情不安など忘れたように、国民は五輪開催に協力を惜しまず。大興奮した。ただ、当時の韓国では体を動かして汗を流すスポーツは卑しいという意識が根強く、選手に対する敬意は薄かった。スポーツの感動というより、分断国家での「平和の祭典」を国民一丸となって成功させ、国威を発揚し、国際的な地位を高める、といった政治的、理念的なものに熱狂していた気がします。

五輪は80年のモスクワ、84年のロサンゼルスと東西両陣営が相互にボイコットしたが、ソウルでは米ソ両大国が顔をそろえた。89年、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結。韓国では海外渡航が自由化され、90年代には国連加盟、旧ソ連、中国と国交を樹立。韓国は国際社会のプレーヤーとして認知されるようになった。94年に金日成が死去した北朝鮮とは、政治体制や経済で差は広がり、96年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟。先進国の仲間入りを果たす。

小倉教授 ソウル五輪は、韓国が国家の浮沈を賭けて開催した大会でした。民主化を勝ち取り、北朝鮮の妨害工作を乗り越え、国民一丸となって賭けに勝利した。民主化から五輪開催、国際化、経済発展と、韓国は、わずか数年で、まるでシナリオがあるかのような発展段階を駆け上った。ソウル五輪は、国難に一丸となって立ち向かい、築いた繁栄の象徴として、今も韓国国民の誇りとなっています。

◆小倉紀蔵(おぐら・きぞう)1959年(昭34)東京都生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は東アジア哲学、比較文明論。NHK「ハングル講座」で講師を務めた。著書に「朝鮮思想全史」「北朝鮮とは何か-思想的考察」など。

<ソウル五輪の主な話題>

◆陸上男子100メートル ベン・ジョンソン(カナダ)が9秒79の世界記録で優勝。しかしドーピングが発覚し、金メダル剥奪、記録抹消となる。金メダルはカール・ルイス(米国)に。

◆陸上女子100メートル フローレンス・ジョイナー(米国)が優勝。ジョイナーは200メートル、400メートルリレーでも金メダルを獲得。

◆ボクシング・ライトミドル級 決勝でロイ・ジェームス・ジュニア(米国)は、朴時憲(韓国)から2度のダウンを奪うなど圧倒しながら判定負け。後に韓国側の審判買収が判明し、採点方式変更のきっかけになった。

◆水泳男子100メートル背泳ぎ 鈴木大地(日)が、水中をキックだけで進む「バサロ泳法」を武器に優勝。日本の競泳でのメダル獲得は、72年のミュンヘン大会以来だった。

◆柔道95キロ超級 斉藤仁が金メダルを獲得するも、日本の柔道金メダルは、1個にとどまる。

◆野球 公開競技。アマチュアで編成した日本チームは、米国に敗れ銀メダル。野茂英雄、古田敦也、野村謙二郎ら、後にプロ球界で活躍する選手が多数、出場した。