国民食ともいわれる牛丼の発祥地である東京・築地から「吉野家」の看板が5月23日に消滅する。

前東京中央卸売市場の駐車場の晴海通りを挟んだビル1階にある築地東店が閉店する。1978年(昭53)2月8日にオープンし42年の歳月が流れた。

閉店は新型コロナウイルスの影響による業績不振ではなく、吉野家広報担当によると「ビルのテナント契約の更新がなされなかったということです」と話した。

立地的にも、築地場外のすぐ近くでファンは多かった。佃煮「江戸一飯田」の飯田一雅社長は「いやぁ~、本当に残念。大好きなんだよ、吉野家。場外の空き店舗に出さないかなぁ」と腕組みした。

毎週土曜はルーティンで朝食を同店でとるという玉子焼き本玉(ほんぎょく)小島の小島英朗社長も「築地から吉野家がなくなるのは大きな痛手です。この店には場内店で働いていた名物店員のおばちゃんもいるから、23日は顔を出したい」と寂しそうにつぶやいた。

吉野家は1899年(明32)に日本橋の魚河岸で、すぐに牛丼を食せる立ち食い店舗として開業した。魚介類を扱う市場で働く仲買人にとって、肉を食せる店は珍しく大繁盛した。

関東大震災で日本橋の魚河岸が壊滅的なダメージを受けて、1926年(大正15)に魚河岸の築地移転にともない、吉野家も築地に店を構えた。東京大空襲で店を焼失したが、終戦後に屋台で営業を再開した。

58年12月に会社法人となって、翌59年に築地場内の中に「築地一号店」を構え、そのときに豆腐やタケノコを具材で入れていたが2代目松田瑞穂社長の「来店する市場の男は牛肉を食べたいのだ」の鶴の一声で、牛肉とタマネギだけのシンプルな牛丼をつくりあげていった。

2018年に東京中央卸売市場が豊洲に移るのと同時に吉野家「一号店」も移転し、創業地の築地には築地東店だけが残った。この新型コロナウイルスの感染・拡大する中、ずっと24時間店を閉めずに営業を続けていた。

今後の築地での店舗展開に関して、吉野家広報では「会社としては121年の歴史の中で世界中に店舗を出してきた。築地は創業地ではあるが、その中の1つ。ただ、出店できる物件とタイミングがあれば築地でも考えると思います。築地のみなさんに吉野家の牛丼が愛されてきたことは本当にありがたいことです」と謝辞を述べた。

築地から「吉野家」の看板はなくなる。しかし、築地波除神社には牛丼の供養碑が建てられており、その碑に「吉野家」のロゴが刻まれている。唯一、波除神社に吉野家の魂だけが残ることになった。