2011年3月11日、東日本大震災が発生した。マグニチュード(M)9・0を観測した最大震度7の地震、広範囲に及ぶ大津波、福島第一原発事故。多くの死者、行方不明者、家屋などの倒壊だけでなく、今もなお日常を取り戻すことができずに苦しんでいる人も数多い。日刊スポーツでは「3・11忘れない あれから10年」と題し、まもなく10年が経過しようとしている被災地の今を伝えます。

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さんさんと輝く太陽のように、笑顔とパワーに満ちた商店街にしたい-。そのテーマで宮城県南三陸町の復興のシンボルとなり、地元住民や観光拠点の役割を果たしているのが「南三陸さんさん商店街」だ。

現在、商店街会長を務める山内鮮魚店の山内大輔常務(42)は「被災3県の商店街で断トツに人が来ているのは、食が充実し、受け皿がしっかりしていることだと思う」と話す。同町の飲食店各店舗で実施している、地元産の食材を用いて季節ごとに「春告げ丼」「ウニ丼」「秋旨丼」「イクラ丼」と変化させる「キラキラ丼」が大ヒット。「みんなで取り組んだのが良かった。競争もあって」。質も、ドンドン上がった。

山内鮮魚店では刺し身バイキングなども導入。「好きな物を好きなだけ。お客さんが楽しめる。お待たせせずにすぐに食べてもらえるスタイルが受けている」と、胸を張った。正月明けにはマダラ、メカブやワカメなどの海藻類。春にはシラス、夏はウニ、水ダコ。秋はサケ、イクラ、冬は真ダコ。季節による海産物の恵みも豊富だ。

南三陸町は震災による死者、行方不明者が800人超。建物被害約3300戸に及んだ。復興への先陣を切ったのも、数々のアイデアを実現してきた山内正文社長(71)と大輔会長の親子だった。

海沿いの店舗などは津波で流されたが「保険に入っていたのが良かった」と正文社長。市場は津波の大きな被害を受けたが、無事だった漁船で11年7月から水揚げを再開したことも助けになった。

同8月10日、高台の沼田地区に保有していた土地で、鮮魚だけでなく野菜や日用品などを含むスーパーマーケットのような形の店を再開させた。刺し身や焼き魚からトンカツまで「700円定食もやったんだよな」と同社長。自身も避難した志津川中では、震災翌月から「復興市」も開催。購入する商店を失った消費者を救った。

12年2月25日には、被災した商店主が結束し、仮設の「さんさん商店街」を大雪の中でスタートさせる礎も築いた。

当時から甚大な被害を受けた町の中心部で本格稼働させる計画を立てた。中小企業規範整備機構など国の援助を受けて資金を確保する一方、阪神・淡路大震災から復興した経験がある兵庫・長田商店街幹部の「長屋形式で、グルっと回れるほうがいい」の助言を参考にした。東京・新国立競技場も手掛けた建築家の隈研吾氏が設計した、スギ材使用の平屋6棟。店舗数こそ、「さんさん」の由来の1つだった仮設時の33店から28店に減ったものの、17年3月3日に東北随一となる復興商店街がオープンした。

大輔常務は「やるしかない10年、進むしかない10年だった。社長は津波なんかで、この馬力はなくならない、と。南三陸でいちばん、切り替えが早かった。新たな加工品だったり自社製品など、アイデアは寝ている時も考えている」。二人三脚で走ってきた父の姿も頼もしく感じている。

来年2月には震災伝承館を兼ねた道の駅が完成予定だ。「防災学習という観点での修学旅行の受け皿を作りたい。食事、学習、宿舎、土産、すべてがそろっている。町もアピールしてほしい」。数が減る冬場の観光客獲得に向けては、カキ小屋新設などの知恵も絞っている。一方、正文社長は「みんなガツガツしたところがなくなっている。これで満足していてはダメ。まずは宮城県の1番店になるつもりでやらないと」。復興ではなく、発展へ。思いが、さんさんと輝いていた。【鎌田直秀】