1932年のロサンゼルス大会以来、オリンピック(五輪)開催のたびに公式記録映画が製作されてきました。コロナ禍の今大会では、カンヌ映画祭などで受賞歴のある河瀬直美監督(52)がメガホンを取ります。64年大会の公式映画「東京オリンピック」は当時の喧騒(けんそう)をも映し出し、1960万人を動員しました。五輪映画はスポーツの感動にとどまらず、時代の空気を記録してきたのです。【相原斎】
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緊急事態宣言下の五輪の異例ずくめは、そのまま公式映画に記録されることになります。メガホンを取る河瀬さんは「無観客でもいいと思いますけど、増田明美さん(ロス五輪女子マラソン代表)から『アスリートは観客がいることで3センチ足が上がる』と聞きました。熱い思いを共有するのも大切なことだと…」とテレビ番組では複雑な思いを明かしています。
07年の「殯(もがり)の森」がカンヌ映画祭審査員特別賞となるなど、国際的に評価の高い河瀬さんが監督就任したのは18年10月。当初は「復興五輪」を中心テーマに挙げていました。
そこにコロナ禍での延期。今年1月の読売新聞の取材では出身地奈良の歴史を振り返り「1300年前の文書によると、天然痘が日本で大流行し、多大な人命が失われた際に建立されたのが奈良の大仏さまです。人類の横にはいつもウイルスなどの脅威があって、しかし日本人は、まつるなどという形で、それと共存しようとする精神性を持ち続けてきたように思います」と、日本古来の「共生」を折り込んだテーマの掘り下げを示唆しました。「どうすれば世界が再び集えるのか。スポーツは、それを表現していく最初の光になれるはずです」とも。
公式映画の製作期間が3年に及ぶのも異例なことで、河瀬さんは医療現場にも取材を広げています。「コロナ禍と人類」という大テーマを包含したこれまでにない作品になりそうです。
57年前、市川崑監督が記録映画の依頼を受けたのは河瀬さんと同じ49歳の時でした。こちらは、開催まで8カ月と、対照的に「突貫工事」を余儀なくされました。第1候補だった黒沢明監督と組織委員会の折り合いが付かず、時間切れの状態で市川監督におはちが回ったのです。
選手の足元が突然クローズアップされたり、人類最速を競う100メートル走が超スローモーションで再現されたり、と当時の記録映画の常識を覆しました。一方で、マラソンコースとなった甲州街道には瓦屋根が並び、人々が屋根の上に鈴なりになって見物する「戦後19年の風景」も映し出されています。
テレビやネットのニュースが当たり前の今とは違い、映画館で本編の前に上映される「ニュース映画」が重宝がられる時代でした。「東京オリンピック」の撮影を担当したのが、実はこのニュース映画を撮っていた報道カメラマン164人だったのです。
「とにかく慌ただしかったですね。市川監督の号令でカメラマン全員が集まった『出陣式』みたいなものがあったんですけど、僕らには演出抜きで時代の真相に迫っているというプライドがありましたから、監督が『この映画にはシナリオがある』と切り出したときには『そんなのやってられんわ!』と席を立つ人もいました。でも、実際の映像をラッシュ(部分試写)で見ると迫力のある素晴らしい仕上がりでした。監督との信頼関係は撮りながら生まれていきましたね」
カメラマンの1人として参加した山口益夫さん(88=現産経映画社社長)は振り返ります。
記録映画として斬新すぎたのでしょうか。試写を見た当時の河野一郎五輪担当相は「訳がわからん、作り直せ」と憤りました。女優の高峰秀子さんが「とってもキレイで楽しい映画。(市川監督に)頼んでおいて、ひどい話じゃないですか」と、監督との仲をとりなし、公開にこぎつけた経緯もありました。
結果、「東京オリンピック」に足を運んだ観客は1960万人。01年に「千と千尋の神隠し」に抜かれるまで、実に36年間、動員記録1位を保持する「国民映画」となりました。公開から半世紀余りを経た今も歴代5位にランクインしているのです。
国際的な評価という点では、映像美においていまだにこの作品を超える五輪映画は生まれていないといわれるのが36年のベルリン大会を記録した「オリンピア」です。日本では「民族の祭典」「美の祭典」の2部に分けて公開されました。
膨大な記録フィルムに加え、競技後に選手を呼び戻してクローズアップの撮影まで行っています。身体美、効果的な音響には、レニ・リーフェンシュタール監督のきらめくような才能を感じさせます。
一方で、ナチス賛美のプロパガンダ映画として非難され、「作為的な演出」と併せてこの作品を否定する声の方が多いのも事実です。第2次大戦後、連合軍に逮捕されたリーフェンシュタール監督は「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」と無罪判決を受けて釈放されます。その後、アフリカ・スーダンの部族を題材にした写真集「ヌバ」を発表するなどの活動を続けますが、03年に101歳で亡くなるまで、欧米メディアの扱いはずっと冷ややかなものでした。「ナチズムに協力した映画監督」のイメージは生涯消えることがなかったのです。
「オリンピア」に感銘を受け、「東京オリンピック」を撮る際の参考にした市川監督は72年、ミュンヘン五輪の会場で偶然、リーフェンシュタール監督に会っています。市川監督は後日「いろんな話をしました。とにかく『民族の祭典』は名作だと思います。政治的なことは一切抜きに、映画として素晴らしい。そんな名作があったから、やっぱり(五輪公式記録映画を依頼されて)初めはたじろぎましたから」と、その才能をたたえています。
スポーツの祭典は純粋で美しいがゆえに政治に染まりやすく、時の権力者に利用されることがあります。「オリンピア」の光と影はそれを端的に示しているのではないでしょうか。
◆相原斎(あいはら・ひとし)1980年入社。文化社会部では主に映画を担当。黒沢明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。「東京オリンピック」の山口益夫カメラマンの話でもっとも興味深かったのは、マラソン撮影でNHKの中継車との場所取り合戦で、ののしり合いながらカーチェイスを繰り広げた逸話。コンプライアンスの現代では考えられない「○○○○!」のやりとりがあったとか。
<冬季ではひと味違うグルノーブル「白い恋人たち」>
冬季五輪の公式記録映画では、68年のグルノーブル大会を撮った「白い恋人たち」がよく知られています。
「男と女」(66年)のクロード・ルルーシュ監督がメガホンを取り、フランシス・レイが作曲したテーマ曲は、公開当時にザ・ピーナッツが日本語訳で歌いました。オープニングでは「これは公式映画ではなく、たまたまグルノーブルにいた映画人が、13日間の感動的な日々を、見たままに描いた作品である」とのコメントが流れます。「ひと味違う記録映画」を強調するためにルルーシュ監督がエスプリを利かせたのでしょう。
聖火リレーの映像で始まり、競技や選手の日常のさまざまな断片が何の説明もなくちりばめられ、大会後の静けさで終了する構成。スキー・カメラマンのウィリー・ボーグナーが高速で滑りながら撮影した迫力ある映像も話題になりました。
72年の札幌大会では「心中天網島」(69年)の篠田正浩監督が総監督を務めました。スキージャンプ金メダルの笠谷幸生や女子フィギュア胴のジャネット・リンが印象的にクローズアップされています。