今年も残りわずか。年末はNHK紅白歌合戦や賞レースなど、音楽が一層身近になる。ところで日本に今につながるような音楽が誕生したのは、いつだったのか。調べてみると、その源流の1つは140年前の外国曲のカバーにあるようだ。そして日本生まれと思っていた楽曲の中に、なんと外国曲のカバーが多いことか。カバー曲の歴史を紹介する。
日本人なら誰もが知る「むすんでひらいて」や「ちょうちょう」が外国曲のカバーと知っていましたか。卒業式の定番の「蛍の光」や「仰げば尊し」もそう。しかも140年前の明治時代に発表されているのだ。
カバーとは、おもに国内外の過去に発表された楽曲を、別のアーティストが歌うこと。1つのジャンルとして確立し、カバーだけの番組も人気だ。日本において雅楽、浄瑠璃、長唄などの伝統的な邦楽から、演歌やポップス、ロックにボカロなど今につながる音楽への源流の1つとなったのが、この明治時代の外国曲のカバーといっていい。
文明開化で西洋文化が押し寄せた。音楽では「ドレミファソラシド」や五線譜も入ってきた。日本にも三味線や箏(こと)などの楽譜はあったが、音符ではなく文字や数字だった。歌唱も口承だった。欧米列強と肩を並べるために、明治政府は富国強兵だけでなく「学制」など教育改革も急いだ。音楽も対象で「音感の劣った国民」という欧米からのレッテルを避けたかった。現・東京芸大創立者の1人で、アメリカで西洋式の教育を学んだ文部省官僚の伊沢修二(1851-1917)が役割を担った。
伊沢は史上初の音楽(唱歌)の教科書作成に取り組んだ。3つの案が検討された。「西洋音楽をわが国に移植する」「わが国固有の音楽を培育する」「東西の音楽を折衷し、わが国に適したものを制定する」。伊沢らは「和洋折衷案」を選択した。この決定が現在につながる日本の音楽を築き上げたといわれる。
そして日本初の五線譜による音楽教科書「小学唱歌集」が作成された。1881年(明14)から全3編が刊行された。掲載された計91曲のうち70曲以上が外国曲だった。「カバー」という概念は当然なかったが、外国曲を積極的に導入することで、和洋折衷の音楽教育実現に努めたのだ。
採用する外国曲のメロディーは、スコットランド民謡などドレミファソラシドの音階に不慣れな日本人が親しみやすいものが選ばれた。「蛍の光」がそうである。歌詞は翻訳ではなく、日本人の感性に合う内容に改作された。「蛍の光」の原曲は旧友と昔を懐かしみ杯を交わす歌詞だった。それを学窓からの旅立ち、惜別の歌に変えたことで不朽の名曲となった。
「仰げば尊し」「蛍の光」「むすんでひらいて」の3曲は、文化庁と日本PTA全国協議会が07年に発表した「日本の歌百選」に選ばれた。「小学唱歌集」に掲載されてから、126年後のことである。
戦争による変遷もあったが、カバーという手法で和洋折衷の音楽が日本に根付いた。伊沢は後にこう語っている。「これから先の子供たちを、よい歌好きの若者にして、その身のためにもお国のためにもなるようにしたい」。その言葉通り、日本は歌好きであふれる国になった。
<カバーあれこれ>
カバーにはいろいろある。原曲通りに歌唱、演奏するのはコピー。カバー曲にはカバーする人のエッセンスが加わるから、聴き応えがある。
◆カバー・ポップス 欧米のポップスに日本語の歌詞を付けた音楽で、60年代前半に大流行した。「ルイジアナ・ママ」(飯田久彦)「可愛いベイビー」(中尾ミエ)「ヴァケーション」(弘田三枝子)「月影のナポリ」(森山加代子)など。訳詞家の漣(さざなみ)健児(本名・草野昌一)氏(享年74)の功績は極めて大きく、J-POPの源流を築き上げた。
◆カバーアルバム 他のアーティストの楽曲をカバーしたアルバム。徳永英明が女性の曲をカバーした「VOCALIST」シリーズは傑作。稲垣潤一と歌姫がデュエットした「男と女」や、JUJUの「Request」などもヒットした。今年はNHK紅白歌合戦に初出場する上白石萌音が「あの歌」を発表した。
◆セルフカバー 主にシンガー・ソングライターが他のアーティストに提供した楽曲を、自分で歌うこと。アルバムにするアーティストも多い。「飾りじゃないのよ涙は」(中森明菜)「ワインレッドの心」(安全地帯)などを収録した井上陽水の「9・5カラット」(84年)はミリオンヒットし、日本レコード大賞アルバム大賞を受賞した。
◆トリビュートアルバム トリビュートとは敬意を表すこと。複数のミュージシャンが、尊敬する音楽家やグループの代表曲をカバーして、敬意と感謝の意を表すアルバム。追悼のケースも多い。今年は松本隆氏の作詞家生活50周年アルバム「風街に連れてって」が話題となった。来年3月にはネットアーティストまふまふの10周年記念アルバム「転生」が発売される。
■「旅愁」「埴生の宿」やドリフ、CM曲も
明治時代から始まった外国曲のカバーは、その後も受け継がれた。「かえるの合唱」「しあわせなら手をたたこう」など、日本で生まれたと思われている曲も数多い。
「ふけゆく 秋の夜 旅の空の…」で始まる「旅愁」は、故郷を思う日本人の心に響く名曲。「日本の歌百選」に選ばれた。原曲は南北戦争後に歌われたアメリカ民謡で、1907年(明40)に出版された音楽教科書「中等教育唱歌集」に掲載され広まった。
「夕空晴れて 秋風吹き…」で始まる「故郷の空」の原曲は、18世紀末に発表されたスコットランド民謡「Comin, Thro, the Rye(ライ麦畑で出会うとき)」。格調高い日本の名曲として歌い継がれている。これをザ・ドリフターズが70年に「誰かさんと誰かさん」というタイトルでカバーした。カップルが麦畑でチューをした、という内容。当時「名曲を汚す」など批判された。しかし、原曲を日本語訳すると「ライ麦畑で女が男と出会ったら 抱きしめられても叫んだりはしません…二人だけのお楽しみ」。なかにし礼氏が作詞した「誰かさんと-」は、原曲を的確に捉えたコミックソングに仕上がっているのだ。「故郷の空」は世界が戦争へ突き進む時代に発表された。原曲を尊重して訳するわけには、いかなかっただろう。
近年ではテレビCMでおなじみの「ヨドバシカメラの歌」や「ビックカメラの歌」も外国曲が原曲。後者は「たんだんたぬきの金玉は 風もないのに」の替え歌もある。
60年代以降は、NHK「みんなのうた」が外国曲の日本版の普及に一役買った。「小学唱歌集」の3曲と、「旅愁」「埴生(はにゅう)の宿」「大きな古時計」など計10曲の外国曲カバーが「日本の歌百選」に選ばれている。カバーが日本に定着した証しである。
◆笹森文彦(ささもり・ふみひこ)北海道札幌市生まれ。83年入社。昨年、取材して驚いたことがあった。お店の閉店で流れる曲が「蛍の光」ではない、ということだ。原曲は同じなのだが、3拍子に変えた「別れのワルツ」という曲だそうだ。しかも3拍子に編曲したのが、昨年のNHK朝の連続テレビ小説「エール」で話題となった作曲家・古関裕而さんという。これもカバーの妙である。