91歳のクリント・イーストウッドが監督・主演した映画「クライ・マッチョ」が14日に公開されます。監督デビューから50年、40作目となる記念作です。政治家同様、監督業の「働き盛り」は、世間よりかなり年かさです。今回は監督と年齢について考えてみました。
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「クライ・マッチョ」は、老カウボーイ(イーストウッド)が元雇い主の依頼を受け、その元妻が住むメキシコから雇い主の1人息子を取り戻しにいく物語です。犯罪すれすれの「誘拐行為」が、少年とのユーモラスなやりとりを絡めて、心温まるタッチで描かれています。
バラエティーに富んだ監督兼主演作をほぼ1年に1本のペースで、しかもアカデミー賞級の高品質で撮り続けている気力、体力には感服するしかありません。
イーストウッド監督にこれまで6度インタビューしたことのあるロサンゼルス駐在の千歳香奈子通信員は「本人は『引退して暇になるより仕事をしていたい』とひょうひょうとしたものです。健康の秘訣(ひけつ)は、すしと緑茶。それとグラス2杯程度のビールで、決して深酒はしないそうです。『運び屋』(18年)の公開前にインタビューした時には、当時88歳にもかかわらず『腰を曲げた歩き方は祖父を参考にした』なんて言うのです。確かに本人は背筋も真っすぐで、足取りもしっかりしていましたからね」と振り返ります。
監督デビューした40代から、一貫して「早撮り」でも知られています。
「イーストウッド作品に出演した俳優はそろってその仕事の速さに感心します。ビジョンがしっかりしていて、俳優を信頼しているからテイク数も最小限なのでしょう。そんな頭の回転の速さも全然衰えていませんね」(千歳通信員)
黒澤明監督も現役50年間を通じて撮り方の変わらない人でした。何度か現場取材した「乱」(85年)では、合戦シーンの撮影が印象的でした。監督は高さ6メートル超のやぐらの上からメガホンを取ります。「大きなおにぎり一つ持って1度上がったら数時間は降りてこない。百人を超えるエキストラの衣装の乱れ一つ、それこそ百メートル先の不自然な小石一つまで見逃さない観察力、長時間の集中力に毎度驚かされます」とスタッフが話していたことを覚えています。当時74歳。80代に入ってから撮った遺作「まあだだよ」(93年)まで、その完全主義の緊張を解くことはありませんでした。
イーストウッドは監督デビュー作「恐怖のメロディ」を新タイプのスリラー作品に仕上げ、いきなり才能を見せつけます。当時41歳。黒澤監督があの「七人の侍」を撮ったのも44歳の時でした。40代でトップ級の地位を確立した人たちが半世紀にわたって一線の活動を続ければ、下の世代は頭を押さえられ、窮屈に感じるのかもしれません。
「家族ゲーム」(83年)などで知られる森田芳光監督が撮影の合間に本音を漏らしたことがあります。
「黒澤さんの頃は40代からトップの位置にいたけど、今は60歳過ぎてようやくピークにたどり着く。製作費を潤沢に使え、大作を撮る環境が整うのもその頃になる。体力、気力を考えたら、僕はそれを50代に持ってきたいと考えている」
現代のSNS社会を予見するような「(ハル)」を26年前に撮るなど、早すぎるくらいの先見性を持った森田監督は志通りに充実の50代を送りましたが、11年61歳の若さで亡くなったことは残念でなりません。
一方で、森田監督の思いは現実になりつつあります。近年では、イーストウッドや黒澤監督のデビュー時をほうふつとさせるように、若手監督の活躍が目立つようになりました。一昨年アカデミー作品賞となった「ノマドランド」のクロエ・ジャオ監督は当時38歳です。昨年には30代でマーベル大作「エターナルズ」のメガホンも取りました。
アカデミー賞作品賞は映画界最大の栄誉であるとともに、若手監督にとっては大作を撮れるビッグネームへの入り口になります。10年単位で受賞時の監督の年齢を比較してみましょう。
ジャオ監督が受賞した21年までの10年間の平均年齢は46・8歳。その前の10年間(02~11年)では52歳です。なんと10年間で5歳以上若くなっているのです。
日本アカデミー賞では、21年の作品賞「ミッドナイトスワン」の内田英治監督は受賞時49歳でしたが、その前年の「新聞記者」の藤井道人監督は33歳でした。直近10年の平均年齢は48・2歳。その前の10年間(02~11年)では50・8歳ですから、こちらも2歳以上の若返りが見てとれます。
配信サービスの普及で、劇場用作品だけの時代より大作製作のハードルが下がったのは確かです。極論すればiPhone(アイフォーン)でも映画が撮れるようになり、裾野が広がりました。
それでも、年齢にかかわらず「巨匠」と呼ばれる域に達するのは独特の「眼力」を持った限られた人たちです。昨年9月に90歳になった山田洋次監督は、コロナ禍によるさまざまな困難を乗り越えて昨年8月「キネマの神様」の公開にこぎ着けました。撮影現場に立ち会った松竹の飯田桂介さんは「エキストラのかすかに不自然な動きなど、誰も気付かないような映像の端まで『違い』を見抜きます。監督がいるだけで現場はピリッとします。やっぱり違うんです」と言います。
黒澤監督は広大な富士山の裾野で撮影した「乱」の遠景の微妙な違和感に何度もダメを出しました。
「その時は何が違うかは分からないが、何かが違うことは分かる。だから撮り直す。その米粒のような違いは後でフィルムを見て初めて分かる」
イーストウッドと黒澤監督は50年。そして山田監督は60年。長く続けられるのは、年齢にかかわらず衰えないこの「眼力」があるからなのです。【相原斎】
▼イーストウッドをしのぐ高齢で活動する映画監督もいます。
世界最高齢の監督として知られたのはポルトガルのマノエル・デ・オリベイラです。無声映画時代の23歳で監督デビュー。63歳の時に撮った「過去と現在 昔の恋、今の声」(71年)で世界的に注目を集めました。105歳で撮った「レステロの老人」をベネチア映画祭に出品した翌15年、106歳で亡くなりました。
日本では11年、新藤兼人監督が98歳で撮った「一枚のハガキ」がキネマ旬報ベストテン1位となって話題を集めました。新藤監督は公開の翌年、100歳で亡くなりました。
女性ではこの23日で90歳になる山田火砂子監督が生涯現役を宣言しています。常盤貴子主演の新作「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」が今年公開されます。
一方で、若くして注目を集めた例としては、石井裕也監督が28歳の時に「川の底からこんにちは」(09年)でブルーリボン監督賞を、30歳の時に「舟を編む」(13年)で日本アカデミー賞最優秀作品賞、同監督賞をそれぞれ史上最年少で受賞しています。若さで言えば、初監督作品「あみこ」が注目され、20歳の時に史上最年少でベルリン映画祭(18年)に招待された山中瑶子監督のような例もあります。
沖縄生まれの仲村颯悟監督の場合は小学生の頃から映画を撮り始め、13歳で発表した長編デビュー作「やぎの冒険」(10年)はビートたけしに絶賛されました。長編映画の最年少監督と言えるでしょう。
◆相原斎(あいはら・ひとし)1980年入社。文化社会部では主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。この20年間の日米アカデミー作品賞をたどってみると受賞時に70代だった監督がそれぞれ一人だけいた。03年「たそがれ清兵衛」の山田洋次(当時71歳)と05年「ミリオンダラー・ベイビー」のイーストウッド(当時74歳)。やはり2人は傑出している。