石原慎太郎氏が亡くなった。今から約32年前、1990年(平2)9月30日に東京・田園調布の自宅で少しだけお話をさせてもらったことがある。

石原慎太郎さん死去、89歳 元東京都知事 小説「太陽の季節」で芥川賞>>

当時、社会担当から芸能担当に異動したばかり。2月に初当選した石原伸晃議員(64)担当から、同じ石原家つながりで俳優石原良純(60)の担当になった。伸晃議員に仲立ちしてもらったこともあり、自宅で良純をインタビューすることになった。

今ではバラエティーや情報番組で人気の良純だが、当時は「石原慎太郎の次男で、石原裕次郎のおいっ子」という冠がついて回った。昨年10月の総選挙で落選してしまった伸晃議員も、当時は初当選したばかりのピッカピカ。良純は「おじさん(裕次郎)には感謝してるけど“伸晃の弟”って言われるのは、ちょっとね」と苦笑いしていた。

慶大在学中の82年に映画「凶弾」で主役デビューした良純は、前年89年の6月にデビュー以来所属していた、裕次郎さんが設立した石原プロモーションを離れた。まだ、気象予報士はやっていなかったが「役者っていうのはバラエティー、ニュース、ドキュメント、何をやってもいい」と話していた。逆に言えば、まだいろいろと模索していた時期だった。

そこへ、慎太郎氏が自宅に帰ってきた。当時の慎太郎氏は環境庁長官、運輸相を歴任した、与党自民党の有力者。そして前年89年にはソニー盛田昭夫会長とエッセー「『NO』と言える日本」を共同執筆で出版。歯に衣(きぬ)着せぬイケイケの時だった。

「おお! 石原慎太郎だ」と心の中で叫んだが、平静を装ってあいさつした。玄関口で典子夫人から説明を受けると、慎太郎氏は「うん、うん」とうなずいて、あの特徴的な瞬きをしながら「そうか社会面から芸能の担当になったんだな。頑張りなさい」と声をかけてくれた。そして「良純をよろしく」と言いながら笑顔を見せた。その顔は“タカ派政治家”石原慎太郎ではなく、石原良純のパパ、石原家の優しいお父さんだった。

当日の記者はオフの予定で、急きょ日程が決まったので「休日」のままインタビューに向かった。写真は、自分のカメラで撮った。良純インタビューの後に、青山で宮沢りえ主演のフジテレビ系連続ドラマ「いつか誰かと朝帰りッ」の制作発表に顔だけ出そうと自分の運転する車で移動していた。

自宅前に留めてあったバブル期を象徴するようなウグイス色の日産シルビアを目にすると慎太郎氏は「気をつけて行きなさい。なにかあったら連絡しなさい」と気を使ってくれた。“元運輸大臣のお墨付き”だったが、慎重に運転して帰ったのは言うまでもない。

派手でカッコイイ言動が目立った慎太郎氏だが、自宅では次男坊良純の前でお父さんの顔を見せてくれた貴重な機会だった。

冥福をお祈りします。

【小谷野俊哉】

一橋大在学中に「太陽の季節」で芥川賞受賞/石原慎太郎さんの歩み>>

猪瀬直樹氏「異人、変人、夷人、なによりも偉人です」石原慎太郎さん悼む>>

アントニオ猪木氏「以心伝心ジェット・シン」石原慎太郎さんはとても喜んだ>>