東北大震災の発生直後に行われた2011年4月の石原氏の最後4選目の都知事選で対抗馬として戦った前宮崎県知事の東国原英夫氏(64)は1日、埼玉・川口市での自身の講演会にリモート出演していたため、終了後に知人から留守番電話に入っていたメッセージで石原氏の死亡を知った。

「びっくりしました。都知事選で戦いましたが、ぶつかってもビクともしない大きな壁と対峙(たいじ)しているようだった。政治家として人間として尊敬しておりました」と過去の記憶をたどるように一言ひとことを絞り出すように語った。

師匠のビートたけしは石原氏とは意気投合していたが、タレントだったそのまんま東時代には接点はなかった。2007年1月に宮崎県知事に当選し、同年4月に石原氏が都知事に3選を果たしたときに東国原氏が「これでまた東京に独裁政権が復活する」とコメントし、石原氏に「何を宮崎のいなかもんが」と言い返されたことが「初めて反応していただいた」と東国原氏は思い返した。

実際に初めて会話をしたのは東国原氏が初めて参加した07年7月、熊本市で開催された全国知事会議。石原氏に広い会議室に呼び出された。「一体何ごとかと思いおそるおそるお会いした」とびくびくしながら初対面すると、石原氏から「あれね、東国原君の提唱する消費税増税案ね、あれはいいよ。そうじゃないとこの国はもたない」と意外にもほめられたという。そのときは30分ほど意見交換をしたが、石原氏の話す様子から「ああ、この人は言いたいことは言うけれど、小さなことではなく、常に大きな流れを見て都知事だけれども常に国の行く末を気にしているんだな、と素直に感じ、心を揺さぶられた」と振り返った。

その後も石原氏とは不仲説なども流れたが、実際にはことあるごとに話をするようになったという。「道なかばではありましたが神奈川県と宮崎県を結ぶヨットの航路をつくることも話し合っていた。もし、この航路ができたら『オレが最初にヨットに乗って宮崎に乗り込むぞ』とうれしそうに話されていた」と思い返し「理想の政治を推進する一方で、少年のような心で夢を語ることもあった。東京-宮崎ヨット航路、つくりたかったなぁ」とつぶやき「ご冥福をお祈りします」と手を合わせた。【寺沢卓】