誕生から70周年の記念映画「ゴジラ-1.0」が公開中です。最新VFX(視覚効果)の迫力ある映像には、終戦前後という舞台設定もあって元祖怪獣の原点の匂いがあります。世界的にも知られるゴジラはそもそもいかにして生まれたのか。改めて誕生のいきさつをひもときます。【相原斎】
「ゴジラ-1.0」では、終戦間もない東京が、「ALWAYS 三丁目の夕日」(05年)の名手、山崎貴監督によって見事に再現されています。混沌(こんとん)とした社会に追い打ちをかけるようにゴジラが出現するのです。
89年の「ゴジラVSビオランテ」から12作のゴジラ作品をプロデュースした富山省吾さん(71=元東宝映画社長)は「銀座の街並みや、ゴジラによって宙づりになった電車の中まで…今の時代だからできる映像表現に感動しました」と感慨深げです。
第1作の「ゴジラ」は、「-1.0」で描かれた戦後の匂いがまだ残っていた54年に生まれました。生みの親といわれる東宝の田中友幸プロデューサー(97年86歳没)はこの年の4月、インドネシア・ジャカルタを訪れていました。終戦後も帰還せず、インドネシア独立のためにオランダと戦った元日本兵を描く大作映画の最終交渉のためです。が、土壇場でインドネシア政府の許可が出ず、その帰路に急きょ代替企画を立てる必要に迫られます。ゴジラ映画の後継者となった富山さんは、後に田中プロデューサーから「大作が吹っ飛んで気が気でなかった」と当時の心境を聞いています。
田中プロデューサーの頭にあったのは、1カ月前に行われたビキニ環礁の核実験でした。「水爆実験の影響で海底に眠っていた恐竜が目を覚まし、日本を襲う」。そんな構想が浮かびます。これが後に「G作品」と銘打たれた極秘企画の始まりでした。
一方、戦時中の映画「燃ゆる大空」などで特撮を担当、後に「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二(70年68歳没)はこの前々年に「化け物のようなクジラが東京を襲う」という特撮映画の企画を提出していました。
5月に入って円谷がG作品に参加。「太平洋の鷲」(53年)などで円谷と組んだ本多猪四郎(93年81歳没)が監督を務めることになって、伝説のゴジラ組が顔をそろえます。田中案の「恐竜を主役に」という流れは決まりますが、ネーミングが定まりません。そんな時、田中の耳に演劇部にクジラ肉が好物でゴリラのような容貌の社員がいるというウワサが入ります。ゴリラの「ゴ」とクジラの「ジラ」。「ゴジラ」の名は後の東宝演芸部長となるこの社員、網倉志朗氏をモデルに生まれたのです。
ゴジラの外形は、漫画家・阿部和助のデザインをヒントに美術監督の渡辺明が仕上げました。円谷は欧米で主流だった人形アニメ(パペット・アニメーション)のコマ撮り技法を検討しますが、「戦争大作」の代替映画として11月3日に決まっていた公開日を考えると、とても間に合いません。そこで演技者が中に入る「着ぐるみ」方式が採用されました。日本ならではの特撮手法がここに確立されたのです。
伊福部昭(06年91歳没)の音楽もゴジラのイメージを決定づけました。第1作の劇中で流れる「平和への祈り」は、名門・桐朋学園の在校生2000人が講堂に集められ、伊福部自らがタクトを振った斉唱が使われています。
製作年に行われた水爆実験がヒントになった第1作には、反核や文明批判が色濃く漂い、米国でもヒットしました。田中プロデューサーが戦争大作を断念せざるを得なかったその帰路でひねり出した窮余の企画は、わずか半年後、怪獣映画の元祖として映画史に名を刻むことになったのです。「田中さん、円谷さん、本多さんが戦後どうしても作りたかった映画への思いがひとつになり、そのエネルギーが短期間で傑作を生み出したのだと思います」と富山さんは振り返ります。
第1作のラスト、ゴジラが死滅した直後に志村喬(82年76歳没)ふんする山根博士は「あのゴジラが最後の1匹とは思えない」とつぶやきます。第1作製作陣の「ゴジラ不滅」の思いが込められているのです。
後年、富山さんは脚本の流れにわずかでも不安があると、必ず田中プロデューサーの元に相談に行きました。そこでは「ゴジラは殺してもいいけど、後につながるようにしないとダメだ」と繰り返しクギを刺されました。「映画のへそ(反戦反核)が見えすぎてはいけない。ゴジラを中心にその恐ろしさですべてを表現しなければいけない」とも。
最新の「-1.0」まで、その原点の思いはしっかりと踏襲されているように思います。
◆相原斎(あいはら・ひとし) 文化社会部では主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。初めて見たゴジラ映画は「キングコング対ゴジラ」。怪獣対決のワクワク感と有島一郎さんのコミカル演技が小1夏の思い出に。