先週から続く連載「ジョッキー福永祐一と私」。きょう23日と明日24日は、師匠の北橋修二JRA元調教師(87)の「手記」をお届けします。

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先週(19日)は祐一の引退セレモニーで東京競馬場に行きました。本当に感動させてもらいました。ファンの方があれだけ残っていてくれて、それはもう、うれしかったです。ミルコとルメールもいましたね。昔、よく家に来て、朝ご飯を一緒に食べていたんだよ。うちの女房のことを「お母さん」と呼んでくれていた。そんな人たちが(セレモニーに)いてくれてうれしかったです。

祐一は小さい頃からよう家に来てました。2つ、3つくらいの時やったかな。「修ちゃん、修ちゃん」って言ってくれてねえ。ちょうどそのくらいの頃に、お父さんの具合が悪くなったでしょ。お母さんはお父さんに付きっきりだったから、よくおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に面倒を見たりしてました。だからもう、祐一は息子みたいなものなんです。今でも家族だと思って接していますよ。

祐一が騎手になると言った時はびっくりしました。もともと、騎手になるなんて(選択肢に)なかったんだから。あれは祐一が中学生の時やったかな。うちの女房がいきなり「今日、裕美子ちゃん(福永騎手の母)が来る」って言うからなんのことやろうか、と思ってね。知り合いの馬主から馬を預かってほしいとかかと思ったけど、違ったんです。「騎手になりたいんだ」って。お父さんのこともあったし、お母さんは騎手になることを反対していたからね。けど、本人が言うならしょうがないって。そうやって騎手を目指すようになりました。

しかし、まさかうち(の厩舎)に(所属として)来るなんて思わなかったです。お父さんの同期は関東にいたし、関東でジョッキーをやるんだと思ってました。関東まで馬を持っていって、乗せたらにゃいかんと思ってたんです。けどね、競馬学校の研修が始まる前に祐一が相談があるって。「修ちゃんのところで研修をしたい」って言うんです。びっくりしたけど、そのとき僕も考えが変わってね。「うちに来るんやったら一生懸命、育てなあかん」となりました。

騎手デビューする前にもいろいろありました。祐一が騎手見習だった時やったかな。ペリエ(騎手)が日本に来ていてね。祐一が馬を抑えるために手綱を引く力が、ペリエの片手の力に負けたんですよ(笑い)。ペリエのすごさを感じるとともに、祐一を頑張って育てにゃあかんとなりました。そうやって、騎手としてデビューすることになったんです。(つづく)

【取材・構成=藤本真育】