15日をもって100年以上の歴史に終止符を打った宇高航路。最終日は乗り切れないほどの人が宇野、高松の両港を訪れた。船内は数々の思い出であふれたに違いない。わずかに残る痕跡とともに歴史を振り返りつつ、今の姿にも触れてみたい。宇高航路のエピローグ。

船内で私の前に座っていた男性の2人組が思い出話に花を咲かせていた。年のころなら70歳ぐらいだろうか。高松を離れ、大阪にいると、お盆と正月の帰省時に食べる船内のうどんを食べるたびに泣きそうになった、大阪に戻る時、どんどん小さくなっていく高松の街を見ると、また悲しくなった、そんな話だった。おふたりとも讃岐弁ではなく、すっかり関西弁。故郷を離れてからの時間を感じさせる(写真〈1〉〈2〉)。

〈1〉四国フェリーの窓口
〈1〉四国フェリーの窓口
〈2〉休止が発表されてからは足早に乗船するかつての光景が見られた
〈2〉休止が発表されてからは足早に乗船するかつての光景が見られた

今は新幹線とマリンライナーを使えば大阪から高松まで2時間。安くしようと思えば明石大橋経由のバスを使って3時間ほど。ただ東海道新幹線しかなかった時代は簡単には行き来できない空間で、なおかつ限定されたコースだった。それだけに宇高航路はにぎわった。24時間営業で鉄道連絡船1社とフェリー3社の計4社が150往復という全盛期の本数は、ほとんど待たずに乗れる数である。青春時代を高松で過ごした、わが社の同僚によると、まさに出発しつつあるフェリーにトラックが“駆け込み乗車”する光景もあったとか。ほとんど都市伝説の世界だ。

ただ昭和末期に廃止された鉄道の宇高連絡船の跡は多くは残っていない。港と直結していたかつての宇野駅一帯は公園となっている。現在の宇野駅から5分ほど歩くと当時から唯一現存している鉄道遺産がある。かつて船が係留されていた跡だったという(写真〈3〉〈4〉)。

〈3〉宇野に唯一残る当時の係留跡
〈3〉宇野に唯一残る当時の係留跡
〈4〉「ごくろうさま」の石碑
〈4〉「ごくろうさま」の石碑

高松側はさらに分かりにくい。こちらも現在の高松駅から徒歩5分ほどにある高松港旅客ターミナルビルがかつて宇高連絡船の岸壁があった場所。レールのモニュメントと説明板が設置されている(写真〈5〉〈6〉)。

〈5〉高松港旅客ターミナルビルにあるレールのモニュメント
〈5〉高松港旅客ターミナルビルにあるレールのモニュメント
〈6〉レールモニュメントの説明
〈6〉レールモニュメントの説明

宇野、高松両駅とも当時から移っており、5分も歩くあたり、かつての構内の広さを感じさせる。ちなみに移転してしまったJRの駅から取り残されたようになっている、ことでん高松築港駅の方がターミナルビルに近く、ここが「築港」だったことが分かる(写真〈7〉)。

〈7〉ことでんの高松築港駅
〈7〉ことでんの高松築港駅

モータリゼーションの波が押し寄せ、地方の鉄道が衰退しても車の需要が高まった分、宇高航路は大いににぎわった。瀬戸大橋が完成し、最後はJRだった宇高連絡船が廃止されても瀬戸大橋の通行料金が高かった分、フェリーに急速な衰えはなかった。私が高松にいたのは1996~98年だが、記憶では普通乗用車で片道5000円したはず。行くと必ず帰って来なければならないので1万円。さすがにこれは高かった。

歴史的に高松とのつながりが強い宇野駅のある玉野市の皆さんも、休日の買い物は岡山市内ではなく高松という人が多かった。だがETC導入による道路料金の値引きや明石大橋~高松自動車道の完成によって急激に衰退する。

それでも航路の重要性が失われたわけではない。小豆島へは航路が必要だし、最近アートの島として脚光を浴びている直島へは両港から多くの便が運航されている。宇野駅もアートな外観に生まれ変わった。観光列車「La Malle de Bois(ラ・マルド・ボア)」も人気である(写真〈8〉〈9〉)。

〈8〉目をひくデザインとなった宇野駅
〈8〉目をひくデザインとなった宇野駅
〈9〉宇野駅のゴミ箱も観光列車使用となっている
〈9〉宇野駅のゴミ箱も観光列車使用となっている

連絡船の跡はほとんど残っていないと前述したが、茶屋町~宇野間の愛称宇野みなと線各駅の長いホームは、ほぼそのまま残っている。かつて走っていた長大編成の優等列車や貨物列車のすれ違いに必要だったからだ。これも十分な鉄道遺産。100年以上刻んだ歴史。思い出も将来へつなぐバトンもまだまだ残っている。【高木茂久】