別府鉄道土山線は国鉄(現JR)土山駅から南下し、山陽電車の電鉄別府(現別府)駅付近を通って別府鉄道野口線と合流。別府港駅に至る路線だった。貨物線としての役割が主で旅客輸送は少なかったが、それでも大正期から昭和にかけて重要な役割を果たした。そして考古学に大いに寄与した路線でもある。勉強も兼ねて遊歩道や公園になっている廃線跡をたどった。(訪問は4月10日)

〈1〉かつては別府鉄道が乗り入れていた土山駅。南側は大きなロータリーとなっている
〈1〉かつては別府鉄道が乗り入れていた土山駅。南側は大きなロータリーとなっている
〈2〉駅前の播磨町案内板と地図
〈2〉駅前の播磨町案内板と地図

厳密に言うと土山線の起点は別府港だが、この日は土山駅からの徒歩となった。1888年の明治21年と鉄道黎明(れいめい)期に設置された当駅は、上りにも下りにも折り返せるため、東海道本線や山陽本線にトラブルが発生した際、急きょ「土山止まり」の電車が設定されることで知られる。駅舎は播磨町だがホームの一部は明石市というユニークな駅でもある。現在、駅の南側は大きなロータリーとなっているが、そこに別府鉄道のホームがあり、線路が敷かれていたことは線路沿いに西へ進むとすぐ分かる。(写真1、2)

〈3〉商業施設にある「駅名標」
〈3〉商業施設にある「駅名標」
〈4〉廃線跡が「であいの道」として整備されている
〈4〉廃線跡が「であいの道」として整備されている

駅前には丁寧な播磨町の案内図。そして駅前の商業施設の「駅名標」。「であいの道」が目指す廃線跡。立派な入り口があり、振り返ると駐輪場。かつて線路で貫かれていたことが一目瞭然だ。歴史と出会える遊歩道は土山からだと歴史をさかのぼることとなるが、播磨町の歴史はもちろん、日本と世界の歴史が学べる。(写真3~7)

〈5〉駐輪場も廃線跡と思われる
〈5〉駐輪場も廃線跡と思われる
〈6〉土山線廃止も歴史に刻まれている
〈6〉土山線廃止も歴史に刻まれている
〈7〉遊歩道で歴史の勉強ができる
〈7〉遊歩道で歴史の勉強ができる

別府鉄道土山線は同野口線から遅れること2年の開業。役割は野口線と同様、多木製肥所(現多木化学)の肥料製品などを運搬することだったが、他社線路に乗り入れなければならない野口線とは異なり、土山駅で国鉄と直接つながったため貨物輸送は主に土山線となった。もちろん旅客輸送も担ったが、貨物車と旅客車の混合列車が走るなど主人公は貨物だった。野口線、土山線ともに約4キロの路線だが、野口線の途中駅が4駅だったのに対し、土山線は1駅だった。

それでも60年代には別府の海水浴場へ向かう人のために臨時列車が走るなど、多くの旅客を運んでいた時期もあった。しかし70年代に入ると自動車輸送の発展に加え、海水浴場の閉鎖などで輸送は衰え、84年2月、野口線とともに廃線となった。

〈8〉廃線跡を歩いていくと現れる遺跡
〈8〉廃線跡を歩いていくと現れる遺跡
〈9〉大中遺跡公園内にある播磨町郷土資料館
〈9〉大中遺跡公園内にある播磨町郷土資料館

さて私がどうしてここまで雄弁に土山線について語れるかというと「であいの道」を進めば分かる。広大な公園に出て、そこで見られる景色は竪穴住居。ここは大中遺跡という集落で遺跡公園となっている。歴史をさかのぼる道程については前述したが、土山駅から歩くと遺跡の時代まで2000年をたどる歴史遊歩道となっているのだ。(写真8、9)

そしてなぜ鉄道記事に遺跡が出てくるのかというと、発見に別府鉄道が大きく寄与しているからだ。播磨町によると、大中遺跡は62年に播磨中学の中学生3人によって発見された。古墳や遺跡が好きだった3人は地元のお年寄りから、大正時代に別府鉄道が敷設された際、大量の「タコツボ」が掘り出されたことを聞く。タコツボそれがつまり土器だったのだ。ちなみに発見当時そして公園として整備された際も土山線はまだ現役で公園内に駅を設置するプランもあったという。もちろん公園の中を廃線跡が突っ切っている。

〈10〉静態保存されているDC302機関車
〈10〉静態保存されているDC302機関車
〈11〉1930年生まれで廃線まで走った客車
〈11〉1930年生まれで廃線まで走った客車
〈12〉機関車と客車の説明板
〈12〉機関車と客車の説明板

公園内には播磨町郷土資料館がある。廃線1年後の開館。もちろん遺跡に関する資料もあるが、土山線に関する資料も豊富なので鉄道ファンはぜひ訪れていただきたい。サボ、通票、合図灯などを歴史解説とともに展示。建物裏手に回るとDC302機関車と戦前生まれで廃線まで活躍した客車が静態保存されている。セットでお見逃しないように。(写真10~12)

〈13〉かつての貨車が倉庫に利用されているようだ
〈13〉かつての貨車が倉庫に利用されているようだ
〈14〉まるで工事途中のように橋脚の片側が空いている
〈14〉まるで工事途中のように橋脚の片側が空いている
〈15〉片側が高架、片側は地上と不自然な構造となつている交差
〈15〉片側が高架、片側は地上と不自然な構造となつている交差

公園を出ると廃線跡は道路となる。となると痕跡はないのかと思われるが倉庫にされていると思われる貨車に出会う。そしてうっかり見逃しそうで、それでもしっかりした痕跡が分かるのは明姫(めいき)幹線と呼ばれる国道250号との交差点。国道が廃線跡の道路をオーバーパスしている。大正生まれの土山線が先にあったので道路拡張の際、鉄道との交点はオーバーパスするように造られたが、よく見ると東行きは交差点をまたいでいるが西行きはそのまま下を走る。ただ橋脚は西行きもオーバーパスの工事がすぐにでもできるようになっていて、これはどういうことかというと工事の最中に土山線が廃線となったため、オーバーパスの必要がなくなったからだ。ちなみに交差点の名前は中野東。唯一の途中駅である中野はこのあたりにあったようだ。(写真13~15)

〈16〉廃線跡は新幹線(手前)と山陽電車をくぐっていく
〈16〉廃線跡は新幹線(手前)と山陽電車をくぐっていく
〈17〉山陽電車をくぐっていた部分だけが狭くなっていることで廃線跡だと分かる
〈17〉山陽電車をくぐっていた部分だけが狭くなっていることで廃線跡だと分かる

その後、山陽電車との交点に達すると、こちらは野口線との交点のすぐ東。この部分だけ急に狭くなっているのは単線の廃線跡そのもの。その先は現在駐車場に姿を変えているが、駐車場の向こう側の道路で野口線と合流。別府港駅に至っていた。(写真16、17)

野口線同様、土山線の廃線跡も平らで分かりやすく歩きやすい。土山駅から約4キロの徒歩は資料館見学をはさんでも1時間半あれば足りる。歩いた季節は葉桜のころで、炎天下の現在とは気候が違うが、その時は野口線もたどって加古川へ。加古川といえばかつめし。散策後のビールとかつめしのうまさは変わらないはずだ。【高木茂久】(写真18)

〈18〉加古川といえばかつめし
〈18〉加古川といえばかつめし

※大中遺跡公園は入場無料だが開園時間がある。9月までは午前9時から午後6時まで。10月以降は午後5時まで。また原則月曜日が休園日となっている。詳細は問い合わせを。