ロッテ大嶺祐太投手(32)は15年前、石垣島のヒーローになった。島民悲願の甲子園初出場。八重山商工に異変が起きた。「練習してたら、横の道路にバスが止まったんですよ。なんか、観光名所になってたみたいです」。懐かしがった。

「もう15年ですか…。この子たちは、まだ生まれていないんですよね」。バンナ岳ふもとのグラウンドで、友利真二郎さん(32)も同じように笑う。大嶺とバッテリーを組んで、南の島をお祭り騒ぎにした。今は友利監督として、あの頃の自分たちに向き合う。

視線の先に7人の少年がいる。巣立った中学硬式野球チーム「八重山ポニーズ」が復活した。友利さんが復活させた。大嶺や西武平良もプレーした名門チームはこの6年間、活動を休止していた。「野球人口不足で、チームが成り立たない状態になりまして」。

石垣島の海、自然を背に笑顔で写真に納まる八重山ポニーズの選手たち(撮影・垰建太)
石垣島の海、自然を背に笑顔で写真に納まる八重山ポニーズの選手たち(撮影・垰建太)

野球の島だ。広い芝生ではキャッチボールをする子どもたちが多い。ひとしきり投げると、はだしで駆け回る。「なんでか分かんないけど、みんな野球好きだよね。昔っから」。キャンプ取材で滞在中、そんな話を何度か聞いたのに、野球を選ぶ子どもは減る。

少年野球チームの「真喜良サンウエーブ」は19年に全国大会で2位になった。レベルは高い。高校野球でも八重山高が昨夏、沖縄県の独自大会で優勝。地力はある。一方で、島内の高校3校の野球部はいずれも1年生が9人いない。「中学硬式チームがないから、島から出て本島や本土でやりたい、って子どももいるんです。それがちょっとショックで」。島の子たちが島から甲子園へ-。

再来を願っても、チーム再開は簡単ではない。あの人が再び立ち上がった。伊志嶺吉盛さん(67)。友利さんや大嶺の恩師で、八重山ポニーズを立ち上げた張本人。八重山商工を監督として甲子園に導いた、島球界のレジェンドだ。

代表に就任した伊志嶺さんは「もうぼくはサポートくらいしかできないから」と指導は辞退した。代わりにボール20ダース、木製バット10本をはじめ、硬式野球用具一式を寄贈した。かつてポニーズを立ち上げた時や、八重山商工で甲子園などに遠征した時などは、銀行でまとまった額を借りたこともあった。私財を惜しまなかった。

今回も何より、教え子の決心がうれしい。

「彼らが成長し、大人になったということ。同じことを地域の方々に恩返ししたいって。八重山の野球が衰退している中で、少年野球の活動をやりたいというのは非常にいいこと。昔のように活発になるように、彼がやってくれればと思いますね」

師から託された友利さんは、先輩OBの上地啓太コーチ(33)らとともに、硬式野球の基礎を伝える。頼れるキャプテンの狩俣恵臣君。やるときはすごい津野愛十君。カチャーシーを踊り出す池間愛斗君。ふっくらだけど足が速い垣本陸翔君。センス抜群の石田壱樹君。未来のエース候補の平良謙太君。泣き虫でひょうきん細井崇仁君。

呼びかけに集まった7人に加え、春から高校球児になる中3生たちも一緒に汗を流す。友利さんは、彼らにも甲子園を味わってほしいと願う。「格別に違う球場でした。においも他の球場と全然違って」。今でもありありと思い出す、あの空間。野球の島に、語り部を増やす挑戦が始まる。【金子真仁】