豪打のチームを作り上げる蔦文也は「攻めダルマ」と呼ばれた。それに関して本人は「気に入っとるとか入らんとかではなくて、気にしとらんかった」と答えた。

池田(徳島)の監督・蔦の野球を単なる打撃重視と考えない人物がいた。鴨田勝雄、新居浜商(愛媛)-法大-日本IBM野洲で監督を務めた智将で、02年に亡くなったが、こんな言葉を残している。

「蔦監督の野球はもともと瀬戸内の野球だといえるのではないか。1点を大事に取り、1点をしっかり守る。そういう緻密な野球が原点になっているはず」

鴨田の見方は「四国でも太平洋側の野球は“打っていけえ”の感じで、良く言えばおおらか。瀬戸内の野球は、高校野球が金属バットを取り入れる前の、虚々実々に1点を取りにいったもの」だった。

蔦は「緻密な野球もやった。データも取った」と言う。そのうえで「しかし高校野球いうんは、案外おおざっぱな方がええということが分かった」と続けた。ただし「おおざっぱ」は「細かいことにこだわらない」こととは違う。

こんなことがあった。豪打全盛期の83年夏に、徳島大会で見せた奇襲戦法だ。しかも徳島商との決勝戦。1-1で7回表の池田の攻撃。2死一、三塁で蔦はサインを出した。一塁走者の吉田衡が二塁へ走る。徳島商の捕手が二塁送球。この瞬間を見逃さず、三塁走者の江上光治が体を躍らせるようにホームへ駆け込んだ。ダブルスチールで奪った勝ち越し点。相手にダメージを与え、最終スコアは4-1で甲子園出場を決めた。蔦が奇襲の種明かしをしたのは試合後で「徳商のキャッチャーが指をケガしとるようだったけん、走らせたまでじゃ」。徳島商の試合前ノックから、蔦の目は光っていた。

池田が甲子園に初めて出場した71年夏、初戦の相手が浜田(島根)だった。捕手で4番は梨田昌孝。のちに近鉄で活躍し、近鉄監督、日本ハム監督、現在は楽天監督となっている。日刊スポーツ評論家時代に梨田は「守っていて池田のベンチを見ると、蔦監督がどっしりと落ち着いている。甲子園が初めての監督さんだとは思えなかった」と述懐している。

孫子の兵法、ナポレオンの軍略、宮本武蔵の五輪書に徒然草など、多くの書物から蔦は学んだ。世界的レベルの考えを通して自チームを見ると同時に、相手チームを探っていった。

無死または1死で一、三塁となったときの奇襲もあった。「偽装スクイズというやつや。相手の捕手を慌てさせれば、一塁走者が二塁を楽にとれる。スクイズすんのはそれからでええ」。

甲子園でこれがうまくいったのが86年春、準決勝の岡山南戦。4回裏に同点に追いつき、なお1死一、三塁で奇襲は始まった。1度目成功、そしてこの回2度目も決めた。たたみかけて結局8-2で勝った。岡山南監督の臼井敏夫は「あのプレーをやられて動揺していてはだめだ」と残念がっている。揺さぶりも蔦の真骨頂。池田はこのあと決勝も完勝し、2度目のセンバツ優勝を手に入れた。(敬称略=つづく)【宇佐見英治】

(2018年3月15日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)