高校野球、横浜高で甲子園春夏5度の優勝を誇り、通算でも51勝をあげた渡辺元智(わたなべ・もとのり)氏が死去したことが17日、分かった。81歳だった。神奈川県出身。高校野球界で一時代を築き、松坂大輔ら数多くプロ野球選手を育てた名将だった。

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渡辺監督とは、わだかまりを残したまま、卒業した。3年の春、試合に出られない主将として、1人悩んでいた。その春の県大会準々決勝、藤沢商戦の前日。「明日、投げるかもしれないから準備しておけ」と声をかけられた。渡辺監督=神のひと言。気持ちも肩も出来上がっていた。しかし、最後まで登板することは無かった。

それから監督を避けるようになり、今思えばチームをまとめる主将でありながら、ふて腐れた態度をとったこともあった。最後の夏、公式戦出場なしで高校野球は終わった。

大学の野球推薦は断り、卒業後、一度も横高には近寄らなかった。それから12年経過した98年の夏、甲子園取材の抽選会で再会することに。恐る恐るあいさつに行くと、自己紹介する前に「おー、飯塚。どうした」と笑顔だった。驚いた。音信不通の戦力外選手を名前まで覚えていた。毎年30~40人の部員を送り出しているのに。やはり、神様にはかなわない…とその時、思った。わだかまりを消せないでいたのは自分が弱いからだけだったのか。

その後、何度か仕事でお会いする機会があった。高校生のときは、何を言われても「ハイ」のみ、会話などおそれ多い存在だった。だが、1対1で話をすると、実際は指導に悩み、選手たちの親御さんの扱いに悩む人間味のある方だった。

「やがて人生の勝者たれ」。渡辺監督の教えの一つだ。「社会に出たらもっとつらいことや厳しいことがたくさんある。そのときのために今は鍛えているんだ」と何度も言われた。ただ、根本的に監督の教えで間違っていたことがある。横高野球部で過ごした2年半ほど苦しいことはこれまでの人生にない。そんな、強さをいただいた。

3年の春、監督室のドアをたたき、投げさせてもらえなかった理由をなぜ聞きに行かなかったのか。それで野球人生が変わっていたかもしれない。一生の後悔である。もう、聞くことはできない。ありがとうございました。【86年度卒業 横浜高校野球部主将=飯塚誠】

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