阪神福留「25年か」復興センバツで知った野球の力

  • PL学園・福留孝介は西武・清原から贈られた色紙を手に笑顔(1995年8月)
  • 95年3月、銚子商戦の3回裏、PL学園・福留は本塁打を打ち、ベースを回る

あの震災を忘れない-。阪神福留孝介外野手(42)が野球ができる幸せをかみしめ、今年も甲子園のグラウンドに立つ。1月17日で阪神・淡路大震災発生から25年-。当時、開催が危ぶまれたセンバツに出場し、バックスクリーン弾を放った高校生は、今も球界最年長として甲子園でプレーを続ける。被災者に再び元気を与えるべく、今季もチームの中心で躍動する。

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大阪で寮生活を送っていた福留は早朝の激しい揺れを感じた。PL学園2年の94年秋季近畿大会で優勝。センバツ出場を決定的にして迎えた95年1月17日に震災が発生。その甚大な被害から大会開催が危ぶまれた。福留は「甲子園でプレーしたいという思いとともに、この状況でやっていいのかなという思いもあった。どっちなんだろうと思いながら練習をやってた」と当時を振り返る。

問題は山積だった。被災者の心情は? 出場校の宿泊先は? 観客の安全確保は? 関係者もギリギリの選択を迫られた。PL学園のグラウンドに隣接する施設には、教団が呼びかけて集めた救援物資が積み上げられた。道路の舗装が間に合わず試合当日はバスではなく電車で球場へ。「この状況でやっていいのか…」。17歳だった福留の思いも当然だった。

高校生の背中を押したのは、被災者の応援する声だった。外野フェンスには「復興・勇気・希望」の文字が書かれた。高校生が白球を追う姿が、被災者の大きな希望になった。プロ注目選手だった福留も1回戦・銚子商戦でバックスクリーンに3ランを放ち、大会を盛り上げた。大会は復興の象徴になった。「そう言ってもらえるのは、うれしかったというか、ありがたかった。あの状況下で野球をやらしてもらったんだから」。

福留は「そうか、もう25年か…」とつぶやいた。あの震災で家族や知人を亡くし、大きな傷を負った人たちがいる。だが、野球が大きな力になることを知った。プロ入り後は東日本大震災の際に義援金を送るなど、自らの使命を十分に理解している。「オレらは野球しかやることがないから。それでどうやって見てくれている方に、そうやって思ってもらえるか。それしかない」。25年前の高校生は、現役最年長プレーヤーとなった今季も甲子園を沸かせる。【桝井聡】

◆1995年(平7)のセンバツ 1月17日の阪神大震災のため開催が危ぶまれたが、発生から1カ月後の2月17日、臨時運営委員会で開催が正式に決まった。参加校は例年通り32校で、3月25日に甲子園で開幕。被災地への事情配慮でナイターを避け1日3試合とし、会期を予定より1日多い11日間とした。2月21日の選考委員会で、出場32校が決まった。

開会式入場行進は最初から外野に全出場校を集合させ、投手プレート付近まで1校ずつ前進。従来の場内1周から変更した。全校が整列した後、黙とうを行った。大会屈指の強打者福留は、PL学園の4番遊撃手として出場し、1回戦で銚子商と対戦。3回に逆転3ランを放ち、延長11回には投手として登板もしたが、7-10で敗れた。なお大会は、春夏通じ初出場の観音寺中央(香川)が優勝を飾っている。

◆阪神・淡路大震災 1995年(平7)1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源にマグニチュード(M)7・3の地震が発生。神戸市などで観測史上初の震度7を記録。死者6434人、重傷者約1万人、被害家屋は約64万棟に上った。国内の大都市を襲った地震としては戦後最悪。