「開幕と私」第5回は投手育成に定評のある元阪神投手コーチの中西清起氏(57)です。プロ入り後初の開幕投手に指名された1990年(平2)4月7日の広島戦で、江夏豊以来球団20年ぶりの完封勝利。暗黒時代のエースが思い出に残る一戦を振り返った。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

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低迷していた阪神が、再建の切り札として監督に起用したのは中村勝広だった。その1年目の90年、広島との開幕戦で先発に指名されたのが中西清起だ。

中西 前年まで監督だった村山(実)さんは、リリーフより先発を重視するタイプでした。中継ぎだった僕は、シーズン途中に先発転向を申し渡された。中村さんに代わった年は開幕投手が注目されたが、ピッチャーの顔ぶれをみると、自分に大役が回ってくるのではと予感はありました。

4月7日の広島市民球場。中西は初の開幕マウンドに上がった。相手の先発はそれまでチームが通算16勝26敗と大きく負け越していた天敵、大野豊だった。

中西 さすがに前の晩は寝付きが悪かった。広島はエースの大野さんだから僅差のゲームになるだろうし、足の速い野村、正田を塁に出さないなど、いろんなことが頭を巡った。試合前もソワソワしていたが、プレーボールがかかると落ち着いた。「辛抱、辛抱」と言い聞かせました。

試合は予想に反して大差がついた。田尾が先制タイムリー、岡田が3回にソロ、4回にも2ランを放って阪神が優位に立った。

中西 大きかったのは2回2死二塁。達川さんの三塁線へのゴロを八木が飛びついて捕った。ややそれた一塁送球だったが、パリッシュの好捕で事なきを得た。あのファインプレーでリズムに乗ることができました。あと、何回だったかは覚えてないが、僕が何度か首を振ったとき、兄やん(捕手嶋田宗彦)がマウンドにきて「俺を信じて投げろ!」と言ってくれたのも心強かったですね。

5回まで毎回走者を背負いながら持ち味の粘りで切り抜けた。3者凡退は6回と9回だけだったが、最後まで「0」を並べた。9-0の大勝。阪神では1970年(昭45)の江夏豊以来、20年ぶりの完封投手の誕生。しかも計161球の熱投だった。

中西 161球は投げすぎだね。でも僕は抑えも経験したけど、1試合3イニングを3連戦とも投げるのが当たり前でした。開幕は「130分の1」といわれるが、チームの行方を占う一戦という「重さ」がある。開幕スタートが大事という考えは変わりません。

この年、中西は右肘痛に見舞われ、トミー・ジョン手術「側副靱帯(じんたい)再建手術」を受ける。85年日本一の守護神は右腕を酷使し、チームのために奮闘していた。(敬称略)

◆中西清起(なかにし・きよおき)1962年(昭37)4月26日生まれ、高知県出身。高知商-リッカーを経て83年ドラフト1位で阪神入団。85年に最優秀救援投手となり、日本一メンバーに。96年引退。通算477試合に登板し63勝74敗、防御率4・21。75セーブは球団5位。05年には阪神1軍投手コーチとして、ウィリアムス、藤川、久保田の「JFK」を率いた。179センチ、87キロ。右投げ右打ち。