日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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その人と向き合ったのは大阪・難波のこぢんまりした喫茶店だ。宅和本司、85歳。「商店街に着いたら電話をくれ」「商店街といわれてもずーっと長いのですが…」「ええから連絡してこいよ」と言ってプツリと切れた。

とりあえず地下鉄を下車、商店街に立った場所を伝えると、どこからともなく現れた。大阪きっての歓楽街を本拠にしたホークス戦士にとっては勝手知ったる土地だが、5分ほどで姿をみせたのはサプライズだった。

1954年(昭29)に門司東(福岡)から南海入り。同期には野村克也、皆川睦雄がいた。バッテリーを組んだ野村とは大阪・初芝にあった寮で同部屋になったこともある。

「野村はキャッチングが下手だった。でも『タク(宅和)、速いな』といわれたよ。いつもバッティングをしていた。『野球ってええな』と語り合ったこともあるな」

1年目から60試合に登板して26勝9敗、275奪三振、防御率1・58。最多勝、最優秀防御率。阪急ブレーブス梶本隆夫(20勝12敗)をしのぐ新人王。同じ高卒の松坂大輔、大谷翔平らをはるかに超えた宅和も鶴岡に見いだされた1人だ。

「この人のためならと思わせる、オヤジのような人。わたしは手が小さいから球種が少なく、ストレートとカーブしか投げなかった。シュートは自然にいった。打たれても怒られないが、ここというときのフォアボールは怒られたよ」

鶴岡は門司鉄道管理局(現JR九州)監督の石川正二をスカウトに招聘(しょうへい)した。「門鉄」で知られたノンプロ屈指の名門は、あまたの野球人を中央に輩出。20年5月19日に死去した日本野球連盟(JABA)元会長松田昌士(元JR東日本社長)もかつて野球部長だった。石川のもとで育った名手木塚忠助も南海に入団した。

鶴岡がヘッドハンティングした石川は日本プロ野球界で「専属スカウト第1号」になった。父栄蔵、母ツイのもとで育った宅和は連日グラウンドに通う石川に恩義を感じた。

「自宅にきた石川さんは両親に『いい投手になるから、こちらに任せてほしい』と言った。水槽を作ったり、畑、大工をしていた父は『お前が正しいと思うならいいんじゃないか』。母はなにも言わなかった。『(プロに)行きたい』といった。石川さんからは『真っすぐで勝負できる投手になりなさい』と言われた」

55年も58試合に登板し24勝11敗でリーグ優勝に貢献した。だが4度目になった巨人との日本シリーズも3勝1敗で王手をかけながら3連敗。「じっと動かない(4番の)川上(哲治)さんの構えをみてあかんと思った」。巨人に引き抜かれた別所毅彦に3勝を献上する屈辱だった。

南海は56年から3年連続でリーグ2位。中西太、稲尾和久ら「野武士軍団」の西鉄が3連覇した。58年はパ・リーグが杉浦忠、セ・リーグは長嶋茂雄が新人王。プロ野球は新時代に突入する。

「新聞には酷使と書かれた。でも親分が喜んでくれると思ったら、おれはそれで良かった」。宅和と別れたときは、どっぷりと日が暮れていた。雨の御堂筋だった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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