今季限りでの現役引退が発表された中日福留孝介外野手(45)が8日、名古屋市のバンテリンドーム内で会見を開いた。

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その電話を受けてから、大和高田クラブを率いる佐々木恭介氏(72)の気持ちは沈んだままだ。

「発表はまだ先ですが、今年でユニホームを脱ぐことになると思います」

引退を告げてきたのは、中日福留孝介だった。

近鉄の中心選手だった佐々木監督自身も、現役からの引き際は経験した。教え子を何人も見送ってきた。なのに、福留の報告を聞いて、うまく言葉が出てこなかった。「長いことお疲れさんやったな、とも、まだまだやれるよ、頑張れ、とも言えなかった。あの電話以来、落ち込んだままです。ぼくにとってあいつは家族同然、息子みたいなものやから」。どういう思いで電話をかけてきたか、わかればわかるほど、声は詰まった。

「ただ1つ言えるのは、次の世界に目を向けてほしいということ。あれだけ弁の立つ人間だから評論家としても一流になるだろうし、あれだけ引き出しも多いから指導者としても本当に楽しみ」。佐々木氏自身が気持ちの落ち込みを振り切るように、福留の第2の野球人生に目を向けようと努めている。

1度は切れた縁だった。近鉄監督着任後、初めて経験する95年ドラフトで、PL学園・福留を指名。ただ福留は、公表こそしていなかったが、意中の球団以外から指名を受けた場合は社会人の日本生命に進む進路をドラフト前に決めていた。意中の球団は中日と巨人。たとえ交渉権を得たとしても、十中八九近鉄に勝ち目はないとみられた。

だが佐々木氏は、福留の姿をどうしてもあきらめきれなかった。PL学園の下級生のころに一目ぼれ。いばらの道も覚悟の上で、福留1位を決めた。紅白の勝負ふんどしを締めて7球団競合のくじ引きに臨み、見事に交渉権を引き当て「ヨッシャー!」の雄たけびを会場に響かせた。その日のうちに東京から大阪にとって返し、大阪・富田林市の野球部寮に会いに行った。

だが、福留は折れなかった。満面に笑みを浮かべ、非の打ちどころのない態度で佐々木監督のあいさつを受けたが、心の中では「日本生命入社→3年後のドラフトで意中球団を逆指名」の進路を決めていた。球団あげての説得も実らず、交渉権は空くじとなった。

だが、そんなことで切れる縁ではなかったのだ。

「福留の再生に、力を貸してくれ」

中日の山田久志新監督から1軍打撃コーチ就任要請の電話を受けたのは、01年のオフ。西武1軍ヘッドと打撃コーチをやめた直後だった。まさかの形で縁はつながった。再会した“恋人”は、別人になっていた。「バットをかつぐような、チンケな打撃フォームになっていて」。聞けば、バットの出の悪さを指摘され、克服するために試行錯誤していた。理由はわかったが、寂しくて、悔しかった。「高校のときの打撃フォームに戻そう、と言ったら、もう忘れました、と言う。それなら積み木を積み上げるように、また一緒に作って行こうと」。二人三脚の日々が始まった。

94年春、95年春夏の甲子園をわかせた打撃フォーム。「あの大きなフォロースルーは、教えてできるものじゃない。強い足腰、ぶれない軸があればこそ。それをしっかり作り直そうと。人間がかさをさすときは、一番楽な姿勢でさすやろ。かさをさす位置が、バットを構える位置や」。しっかりと相手に寄り添う言葉で、教える側は道を示した。教えられる側は、乾いた砂が水を吸い取るように吸収していった。明けて2002年、前年2割5分1厘に沈んだ打率は3割4分3厘で首位打者を獲得。本塁打はキャリアハイの34本を積み上げた。佐々木監督との再会で、福留はWBC、メジャーと世界の舞台で戦う打力を身につけていった。

20年の時が過ぎ、互いの立場が変わっても、師弟関係は変わらない。福留がメジャーから日本復帰したときも、佐々木氏がオフの練習に付き添い、佐々木氏が大和高田クラブ監督に就任後は、福留がオフに姿を見せる。大和高田クラブの今夏の全日本クラブ野球選手権大会優勝には、有形無形の福留の支えがあった。

「なんとか、花道を作ってやってほしい。それだけのことに値する実績を残した選手ですから」。そう願う声にも、寂しさがにじんだ。【堀まどか】

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