大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。

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ある日、記者が大阪市内にあった仰木のマンションを訪れた夜のことだ。玄関先に姿を現した監督は「お前んとこは“権藤派”だからしゃべらん」と取材拒否にあった。

大阪・豊中の豊南市場で買っていったぶどうは突き返された。その後、お互い和解したが、当時のやりとりが、仰木と投手コーチの関係を物語った。権藤博の言葉からは早い段階でボタンの掛け違いが始まったことが分かる。

「仰木さんはゴルフを一緒にしているときなどは温厚だけど、そのイメージとのギャップは大きかったですね。こちらが『打たれるか、抑えるかを見てから、3イニングぐらい投げさせてくださいよ』といっても『いかん』と。これは全然違うなと、すぐに感じたことでした」

監督1年目の1988年は、阿波野秀幸、小野和義の2本柱に、山崎慎太郎を発掘し、ドラフト1位・高柳出己らを先発ローテーション入りさせる。抑えは吉井理人を抜てきした。

5月10日のロッテ戦(日生)、変則左腕の村田辰美が先発した。1点リードしていたにもかかわらず、開幕から2勝して好調だったベテランを5回3分の0で交代させ、加藤哲郎にスイッチした。

村田が降板後のチームは同点に追いつかれたが、9回裏に村上隆行の本塁打でサヨナラ勝ち、吉井に5勝目がついた。権藤は「あれが始まりだった」と仰木とのベンチ裏での対立を示した。

「『まだシーズンはスタートしたばかりですよ』といっても聞かない。今は代えるときじゃない、終わりがけならいいけどと言ってもダメ。その後はモノも言わなかった」

野手出身の監督にとっての課題の1つは投手の起用法だ。現役時代もピッチャーと交わるケースは少ないし、逆にピッチャーも“投手族”を作るから、なかなか野手と一緒になる機会がない。

また野手出身の評論家でもネット裏からは冷静に論じることができても、首脳陣になってベンチからみるグラウンドの光景は全く異なるようだ。特に投手の調整と試合展開を読みながらの継投は経験がモノをいうものだ。

その点、仰木は約20年間もコーチ業に携わってきた強みがあったから、独自の勝負勘で投手起用に踏み切った。かたや百戦錬磨で信念をもつ“権藤流”だから対立するのは時間の問題だったのかもしれない。

ただ勝利に向かうのはお互い同じで、意見が対立してもどこかで折り合いをつける必要があった。

「Bクラスのチームだったら『どうしましょう』というと『どうでもせえ』となるが、優勝を争うチームではそうはいかない。選手に言ったんだ。『おれも戦うけど、お前たちも監督と戦うんだ』とね」

近鉄は89年に9年ぶり3度目のリーグ優勝。打率(2割6分1厘)はリーグ5位だったが、防御率3・859は西武(3・856)に次ぐ2位。監督と投手コーチの関係はベンチ内の緊迫感になってチーム力の強さを生んだのも確かだった。【寺尾博和編集委員】

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