日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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浪速の名門南海ホークスで、1964年(昭39)の日本一メンバーになった1人が、名ショートだった小池兼司だ。84歳。59年前の阪神との日本シリーズを語ることができる数少ない人物だ。
南海のオールドファンでこの人の名を知らないものはいないだろう。浜松商から専修大を経てプロ入り。プロ野球最多勝監督で、“親分”と呼ばれた鶴岡一人のお眼鏡にかなってレギュラーに抜てきされた。
鶴岡が残した「グラウンドにゼニが落ちてる」という名言は有名だが、その若手候補が小池だった。ショートを守っていた、こちらも名プレーヤーの広瀬叔功を外野に追いやったと語り継がれている。
ソフトバンク監督を退任した藤本博史が、南海入団した当時の2軍監督だった小池は「よく監督までなったけど、おれは博史がかわいそうでならないよ」とCSファーストステージ敗退の愛弟子をねぎらった。
「短期決戦は公式戦と違って難しいんだ。雰囲気にのまれて、勢いをつけすぎて、空回りしてもダメだしな。でもあのときの日本シリーズの阪神内野陣は、ショートが吉田(義男)さん、サードは三宅(秀司)さん、セカンド鎌田(実)で、まるでアクロバットを見ているような華麗さだったな」
南海で“100万ドルの内野陣”といわれた系譜を受け継いだのが、小池の世代だ。先輩の木塚忠助、蔭山和夫ら名内野手から指導を受ける。実際、63年小池の遊撃手としての111併殺はパ・リーグ記録、68年連続守備機会無失策210(4月6日~6月7日)は日本記録だった(いずれも当時)。
64年日本シリーズの大舞台で、25歳だった小池は全7試合に6番と7番で出場し、打率3割4分8厘の成績を残した。
「親分は雲の上の人だったけど、『この人についていけば勝てる』という貫禄があった。シーズン中だけど、こちらが右人さし指を骨折してるのに、黙ってスタメンで使うんだもん。お前に任せたぞというメッセージなんだよ」
南海はジョー・スタンカが連続完封するなど、阪神に4勝3敗で2度目の日本一を達成。小池は「でもあえて勝因を挙げるとしたら反骨心だったと思うんだよ」としみじみと振り返った。
「巨人は水原(茂)さん、川上(哲治)さんと監督が続いた強い時代だからね。パ・リーグは南海、西鉄も人気があったが、やっぱり巨人だった。だからセ・リーグには絶対に負けたくないという気概でぶつかっていったんだ」
かつて“人気のセ、実力のパ”と色分けされた時代には、お互いがライバル意識をむき出しにしたのだろう。阪神対オリックスで関西勢同士の対決を前に、やはり小池は「セ・リーグには負けられないよ」と力を込めるのだった。 (敬称略)



