「横綱、天皇陛下が亡くなられた。初日は1日遅れて月曜日になった」。文言の一言一句は正確ではないかもしれない。何せ30年と3カ月前の話だ。ただ、天皇陛下が亡くなられたこと、喪に服す意味で翌日の予定だった初場所初日が1日遅れることが伝えられたのはハッキリと覚えている。場所直前で朝稽古も早めに終わったこともあり、熱気は冷気に変わっていた。底冷えする上がり座敷で、私は時代が変わる節目の一報を耳にした。

昭和64年1月7日の土曜日。初場所初日の前日にあたるはずだったこの日、前年12月から相撲担当になった私は、横綱大乃国が所属する放駒部屋(東京・杉並区)の朝稽古に足を運んだ。結果的に昭和最後の一番となった同63年11月の九州場所千秋楽結びの一番で、横綱千代の富士(先代九重)の連勝を「53」で止めた大乃国を取材するためだ。取材に来ていたのは、私1人だったと記憶している。稽古が終わり、横綱と話をしていた時、師匠だった放駒親方(元大関魁傑)が横綱に発した前述の言葉が耳に飛び込んできた。すぐには事実をのみ込めず、事の重大さが分かった時には横綱に切り出す言葉も見つからず、取材はそれで打ち切られた。

それから5年間、相撲担当を務め、その後は他のスポーツ担当を転々とした。そして4年前の1月に約22年ぶりに復帰。この間、老若男女が熱狂した若貴フィーバーが幕を下ろし、モンゴル勢による新たな時代が始まり、白鵬1強時代、そしてさまざまな不祥事による冬の時代を経て、再び人気安定の時を迎えている。

浦島太郎状態で20年ぶりに戻った相撲の現場は、その間、全く顔を合わせたことのなかった親方衆や裏方さんに「久しぶりだね」と声をかけられることも多く、義理人情の厚さに懐かしさを感じたものだ。SNSによる情報発信、データ提供の広報体制など二十数年前と比べるべくもなく、時の流れで当然とはいえ「時代も変わったもんだ」と思わされもした。

昨今のパワハラ問題が影を落としているのか、力士風情には「昔はもっと上下関係が厳しかったのでは」と思うこともある。平成の初期は、昭和の名残があったが、今は様変わりしたと感じる。指導するにも何かと制約がかかり、肩身の狭い思いをしている関係者も多いのでは。型破りで個性的な力士や親方衆が、そこかしこにいた昔のバンカラな時代に、今を重ねようとしても無理な話だろう。

そうはいっても、大相撲は大衆の支持を受け、生き続けてきた。場所が中止になる問題があろうと内紛劇が起ころうと、紆余(うよ)曲折を経ながらも興行は続いている。今の両国国技館建設の際、借金なしで建設した上に、当時の春日野理事長(元横綱栃錦)とともに「相撲取りの仕事は相手を負かすもの。中卒の我々が(大手建設会社の)大学出のエリートを負かしたんだ」と建設費を十数億円も負けさせた自慢話も、今は亡き初代横綱若乃花の花田勝治さんから酒を酌み交わしながら聞いた。裸一貫で相撲道を歩いてきた気骨のようなものは、脈々と受け継がれているはずだ。

担当になった平成最初の場所で、3場所連続休場明けから復活優勝した横綱北勝海は、八角理事長として角界をけん引。「休場明けでとにかく必死だったよ。(節目の場所と)考える余裕はなかった。30年? 早いね」と述懐する。昭和最後の日の取材相手だった大乃国は、芝田山広報部長として情報発信している。千代の富士は鬼籍に入り、貴乃花はよもやの協会退職。30年もあれば、いろいろなことが起きて当然だ。それでも大相撲の火は、一時的に風前のともしびにはなっても消えることはなかった。

そんな平成も終わり、間もなく「令和」が始まる。昭和から平成になって相撲取材を始めた約30年前のあのころ、3横綱が4横綱になり、それも長くは続かず「千代の富士時代」は終わりを告げ、若貴を中心とした新たな息吹があった。平成3年名古屋場所から平成5年夏場所までの丸2年間の12場所で、何と横綱の優勝はなく、平幕優勝4人という摩訶(まか)不思議な時代もあった(うち4場所は番付上に横綱不在ということもあるが)。そんな新旧交代、群雄割拠の時を経て「曙貴時代」を迎えた。元号が変わる今、単なる偶然の一致だろうが、あのころと時代背景が重なる。貴景勝という新大関を迎える「令和最初」の夏場所。新星の台頭は雨後のたけのこのごとく、何人いてもいい。それが間違いなく活性化につながる。土俵は新たなチカラビトを待っている。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)