黒ネクタイ着用の取材が続いた。4月中旬から先日まで、鬼籍に入られた4人の通夜、葬儀の取材は23日間で8日にも及んだ。元十両彩豪さんに始まり、シドニーオリンピック(五輪)時に取材した陸上指導者の小出義雄さん、黒姫山さん、先日は特等床山だった床寿さん。2月には元前頭の時津洋さんの葬儀にも足を運んだ。

当然、気は重い。ただ語弊があるのは承知の上で言えば、ゆかりのある人の話を聞いたり、以前に関係者を通じて見聞きしたその人を振り返ることで、あらためて故人の人柄をしのぶ機会だとも思った。

直近の床寿さんで言えば、5日の通夜で焼香に訪れた元横綱朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏の言葉だ。大銀杏(おおいちょう)を結われている時のことだろう。「『横綱には、この顔の上に5つの角がある』と言われました。自分もずいぶんヤンチャだった。『その角が、あと2本しか残ってない』と言うんです。『そろそろ引退が来るぞ』と」。闘牛の2本の角が、気性の激しい朝青龍には一人横綱を張って近寄り難い雰囲気の時には、さらに3本加わって5本はあったということだろう。それが人間、よわいを重ねると性格も角が取れ、丸みを帯び、弱ってくると角も取れ、普通の闘牛のように2本しか残らなくなったと床寿さんはたとえた。昔の人は、含蓄のある言葉を使ったものだ。あの朝青龍を手のひらで、うまく転がしたことだろう。

黒姫山さんで思い出すのは本人でなく、元大関貴ノ花の当時藤島親方(故人)の言葉だ。若貴はじめ気性の激しい、そうそうたる関取を輩出していた90年代前半に聞いた言葉だ。その藤島親方が雑談の中で、ふと現役時代を思い出して話してくれた。「昔ね、取組を終えて花道を引き揚げる時に、お客さんから『何だ、貴ノ花でもあんな相撲を取るのか』と投げかけられた言葉が忘れなくてね。それ以来、私は立ち合いで変化するまい、と誓ったんです。黒姫山さんとの一番でした」。猪突(ちょとつ)猛進のぶちかましの立ち合いで、花形蒸気機関車(SL)の「D51」から「デゴイチ」の異名を取った黒姫山さん。百数キロの細身の体で、どんな相手でも真っ向勝負が身上だった貴ノ花の後悔の念は、黒姫山さんのすごみを裏付ける言葉でもあった。

4月6日に43歳の若さで死去した彩豪さんの通夜には「えっ、何でこんな人たちが」と驚くほど、一門の枠を越えたそうそうたる親方衆が焼香に訪れた。協会を離れても相撲の普及に汗を流していた彩豪さんは、全国の小学校や相撲クラブにある土俵の改修を含め、100個の土俵を作るプロジェクトを今年に入って着手。2月の第1号に続き、さあ2番目の土俵を、と希望に胸ふくらませていた矢先の訃報だったことは、涙にくれる後継者の方から聞いた。本来はお祝い唄だからと一度は拒んだ、ある呼び出しさんは、遺族や関係者の熱意にほだされて、終生の功績をたたえる「彩豪一代」の相撲甚句を作った。きっと天国で聞いているはずだ。

「花の咲かない寒い日は 下へ下へと根を伸ばせ やがて大きな花が咲く」。苦しい時、女子マラソンの高橋尚子さんが座右の銘としていた言葉は、小出さんが大好きだった七五調の韻律だったと記憶している。関取の座を目指しつつ、なかなか芽が出ない若い衆にも胸に刻んでもらいたい言葉だ。時津洋さんは協会を離れ都内や海外に、ちゃんこ店を開いたが、店の経営や仕入れ方法などのノウハウを、後に現役を引退し店を開いた「商売敵」の後輩力士に胸襟を開いて教えていたという。これは参列者から聞いた話だ。

黒ネクタイ着用の取材は、なるべくなら避けたい。ただ、忍び寄る老いや運命は、誰も避けられない。還暦を2年後に控えた自分にも、見送られる側になる日が確実に近づいているのも現実。ふと故人を思い返し「あんな人だったな」としのぶことが、何よりの供養だと勝手に思っている。【渡辺佳彦】

関係者によって出棺される墨谷さんの棺
関係者によって出棺される墨谷さんの棺