張本勲さんが亡くなったと聞いて、私の中に読売大阪社会部時代の上司、故黒田清さんが書いた1本の署名記事が鮮明によみがえってきた。
半世紀前、1976年4月の広島-巨人戦。試合中の判定をめぐるトラブルが尾を引いて、市民球場からの帰りに広島出身の張本選手が取り囲んだファンに暴力を振るったとして大変な騒ぎに発展した。
記事で黒田さんは、張本選手の耳に届いたかどうかは別に、その日観衆のなかから一再ならず民族的侮蔑に満ちたヤジが浴びせられたと聞いたとした上で「張本選手のバット1本、一匹オオカミの生き方も好きだ」としたあと、こう書いた。
<だが、一番好きなところは彼が韓国人であることを誇りにしていることと、無類の母親孝行であることだ。チョゴリ姿の母親と抱き合うとき、彼はいつも本当にうれしそうな顔をしている。目は細くなりかけてしまう。彼は、自分の国に対しても、この母親に対するのと同じような愛情を持ち続けているにちがいない>
そして暴力否定の金科玉条。さらに、ファンは金を払って見に来ているのだから、という前提は果たして絶対的なものなのかと書き-
<逆に言えば、どんなに大金を積んでも、人間がしてはならないこと、できないことがあるのではないか。母に対する愛情とか国に対する誇りとかいうものは、人間の尊厳にかかわる問題であろう。そういうものに対して侮辱を与えられたとき、怒らないのはおかしい。それはプロ野球の選手だからということでなく、人間としてのことなのだ>
言うまでもなく当時、張本さんは読売巨人軍の選手。黒田さんは読売の一記者。これを書くことにどれほど勇気と決断がいったことか。
後日談がある。学生野球の発展に尽くされた黒田さんのすぐ上の兄、亡き脩さんがある日、伊豆のゴルフ場で張本さんと偶然出会い、「清の兄です」と言うと痛いほど握手されたと聞いた。
人生の師が、1人、またひとりと去って行く。
◆大谷昭宏(おおたに・あきひろ)ジャーナリスト。東海テレビ「ニュースONE」静岡朝日テレビ「とびっきり!しずおか」など出演中。


