支線シリーズの第3弾である小野田線本山支線の後編。2016年に初めて訪れてから3年かけ、ようやく電車に乗って到達した長門本山駅。たった2駅の乗車だったが、道中では予想しなかった出来事もあり、徒歩で電車でと2回の訪問で得た結論は、やはりこの路線は「究極の支線」ということだった。(文章内の情報は訪問当時のものです)(写真1)

 
 
〈1〉午後は唯一となる電車が出発を待つ
〈1〉午後は唯一となる電車が出発を待つ

雀田駅で1人の女子高生が発車間際に降りた。まだ18時台だが「最終電車」である(写真2)。「え~っ」と思ったが、女子高生はどこに行くでもなく待合室で座った。なるほど、そういうことか。おそらく家族が車で迎えに来てくれるのだろう。「もったいない。降りちゃうの?」と考えるのは、私がはるばる泊まりがけで来たからであって、地元の方にとっては日常のひとこまである。

〈2〉「最終」の長門本山行きが発車を待つ
〈2〉「最終」の長門本山行きが発車を待つ

3年前に続いて今回も2月の訪問となった。前回は徒歩に適した時期を選んだ。だが今回は歩かない(他の地域で歩いたが)。2月を選んだ大きな理由が「青春18きっぷのシーズン外」である。鉄道ファンに人気のローカル線は、青春18きっぷの季節(特に夏)はとにかく混み合う。となると私の大好きな「駅独り占め」をできなくなる可能性が高い。7月11日に書いた小和田駅(飯田線)、10月3日に書いた青海川駅(信越本線)。いずれも青春18きっぷの季節を避けた。もうひとつ「おとなびパス」の発売期間だったというのもある。

そのかいあってか(?)、車内にいる私を除く4人は明らかにサラリーマン風の男性3人と女子高生。同業者(鉄道ファン)はいない。水曜日だったので平日のいつもの光景だと思われ、こりゃあもくろみ通りだワイと心の中でニヤニヤしていたら、予想もしていなかったことが起きた。

唯一の途中駅である浜河内でサラリーマン3人が降りてしまったのだ。全員が長門本山まで行くと信じ込んでいた私はビックリしてしまったが、ここで3年前の徒歩経験が生きた。確かに周辺の住宅の多さは浜河内に軍配が上がる。夕方以降に1本しかないこの電車を逃した場合は、皆さん雀田から1キロちょっとのこの区間を歩くのではないだろうか。

〈3〉唯一の乗客は足早に立ち去っていった
〈3〉唯一の乗客は足早に立ち去っていった
〈4〉長門本山で出発を待つ午後唯一の電車
〈4〉長門本山で出発を待つ午後唯一の電車

と、そんな一方的な推理より問題は1両編成の車内だ。私と女子高生の2人っきりになってしまった。私を除く5人の乗客が女子高生たった1人に-。まるでアガサ・クリスティのような展開だ。というか気まずい。ただこれが北海道の旧白滝駅のように唯一のお客さんだったらどうしよう。プライベートな旅で名刺を持ち合わせていないが、尋ねてみる価値はありそうだ…と思ったら、すぐに電車は到着して彼女は小走りに去っていってしまった(写真3~5)。「怪しいものではないよ~」と叫びそうになったが、この暗がりでふだん見慣れないオッサンは確実に不審者である(泣)。ちなみに後で運転士さんに聞いたところ、唯一のお客さんではないそうだが、折り返しの乗客は私1人だった。

〈5〉夜の長門本山駅
〈5〉夜の長門本山駅
〈6〉長門本山駅の時刻表(2016年2月)
〈6〉長門本山駅の時刻表(2016年2月)

朝の2本は約5分で長門本山を折り返すが、夜の1本は20分の停車時間がある。夏場に来れば余裕で明るいのだろうが、暗闇に浮かぶ棒状駅とクモハ123(※)の姿もなかなか良いものだ。朝夕のみ、1日3往復の運行にこのあたりでしか見られない車両(写真6)。推理小説のような展開も味わえた。やはり究極の支線である。【高木茂久】

〈7〉長門本山駅の前を走るバス(2016年2月)
〈7〉長門本山駅の前を走るバス(2016年2月)
〈8〉長門本山のバス停(2016年2月)
〈8〉長門本山のバス停(2016年2月)
〈9〉長門本山の駅前にある付近の観光案内イラスト
〈9〉長門本山の駅前にある付近の観光案内イラスト

〇…本数の少なさから朝夕のわずかな時間しか到達手段がないような印象がある長門本山駅だが、実は小野田駅から小野田の市街地を経て観光地でもある本山岬へと至るバス路線の途中に駅が位置するため、1時間に1本程度のバスがある(写真7~9)。駅から海に向けて3分ほど歩いたところに朝からおいしいパンを提供してくれるパン店があってイートインも可能。駅の先は道路を隔ててすぐ海でホームからも少し望むことができる(写真10)。

〈10〉長門本山駅は海のすぐそばにある
〈10〉長門本山駅は海のすぐそばにある
〈11〉今や貴重な存在となったクモハ123
〈11〉今や貴重な存在となったクモハ123

※長門本山駅のホーム有効長は1両分しかないため、戦前に製造されたモハ42電車が平成になっても使われていたことでも有名な支線だった。戦後、国鉄では気動車と違い床下にいろいろな機器を入れる電車は最低でも2両編成が必要とされたことが戦前車両が長持ちした理由。その後、郵便輸送の減少などで余剰となった国鉄の荷物電車は単独で走れることからクモハ123(写真11)に改造された。ただ現在も走るのは宇部線、小野田線とその周辺に限られている。近年、JR西日本や地方私鉄が1両単行の電車を開発している。