山陽本線の姫路駅から山陰本線の和田山駅まで兵庫県の山中を走る路線が播但線だ。全長70キロにも満たない地方交通線だが、生野銀山の資源を姫路の港まで運搬する重要な役割を担ったため、歴史は古く部分開業から数えると120年以上の歴史を誇る。青春18きっぷを手に、電化と非電化、現在は2つの顔を持つ路線を回った。(訪問は7月23日。以前撮影した写真も含まれています)
ここのところ兵庫県のリポートばかりが続いているが、こういう状況なので7月中旬からの1カ月は県内完結の旅ばかりをしていたので、しばらくご容赦ください。もっとも広い県なので県内でも十分に楽しめる。
まず姫路を目指す。今夏の18きっぷスタート最初の休日、しかもここから4連休となるだけに「同業者」(鉄道ファン)は多い。乗車した快速は山陽本線を経て伯備線の新見までたどり着ける普通に姫路で接続する、いかにも「18きっぷ向け」なので人気が高い。接続電車へダッシュする人々をよそに、私は例によって「えきそば」で腹ごしらえ(写真1)。播但線ホームへと向かう。
待っていたのは山手線をはじめ、いわゆる「国電」を支えた、あの103系である(写真2、3)。JR東日本では10年以上前に役割を終えたが、播但線では堂々の主力だ。側面の「BANTAN 103」の主張がいい。だが一般のお客さんは「103」の意味が分かるのだろうか? 私はうれしいが、いつもそう思ってしまう。
ワンマン運転仕様に改良された103系が高架ホームを出発した。高架線を走っていると姫路城を見ながら弧を描くように線路が延びていることが、よく分かる。しばらく姫路城を見ていられるのは楽しい車窓だ。実際の行程は効率よく回るために行ったり戻ったりしているが、忠実に再現すると複雑すぎるので駅の紹介は駅順とする。
姫路を出ると京口、野里(写真4)の2駅は高架で、マンション群が並ぶ姫路の街中を通る。高架を降りると砥堀(写真5)。明治期に開設された駅の多い播但線では珍しい戦後の駅。駅舎はなくホームだけの駅だが、休日の朝とはいえ姫路に向かう人や部活とみられる高校生で電車もホームもにぎわっている。
お隣は木造駅舎(写真6)の仁豊野(にぶの)。難読駅が多いのも播但線の特徴である。香呂(こうろ、意外と読めない)の財産標によると「明治27年8月」に建設された駅舎がそのまま残る(写真7、8)。1894年8月は、日清戦争のまっただ中。歴史を感じる。豊臣秀吉をはじめ、戦国時代から名だたる武将が支配を争った生野銀山は明治に入っても重要な鉱山で、資源を姫路港へ運搬するために計画されたのが播但線の前身となった播但鉄道。その1894年に姫路から寺前までが開業した。香呂とともに鶴居(写真9)も明治27年からの駅舎がそのまま残り、ともに県内で最も古い駅舎だ。
先を急ごう。福崎は播但線すべての単独駅を管理する(写真10、11)。以前来た時と比べ駅舎が立派になっていたが、古い木造駅舎は残されていてちょっとホッとした。甘知、鶴居を経て寺前(写真12)に到着。特急以外の列車はすべてこの駅で終点となる。電化区間はここまでで、路線は別の顔となる。待っていたキハ47の単行(1両編成)に、あわただしく乗り換え。今回の最大の目的地である長谷駅は1駅目だ。
播磨と但馬の間の山深い場所に位置し、両隣の駅への距離も長い。播但線で利用客が最も少なく(写真13~16)、路線内で特急以外の通過がある唯一の駅でもある。本数が少ないため、実は私も列車での訪問は初めてだ。ただし駅は1面2線の立派な造りで実際は盛り土だが、入り口も含め高架駅のようにも見える。ここで40分ほど過ごすことになった。駅周辺は民家が並ぶ。子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。ぼんやりしていると多くの鳥が飛んでいた。私は鳥のことはさっぱり分からない。都会で見かけるハトやカラスそしてスズメ、ツバメぐらいしか、見て名前が言える鳥はないのだが、こんなに鳥って多いのか。鳥の種別を知っていると楽しいだろうなぁ、ホームでたたずみながら、鉄道旅であまり感じることのない幸せな気分を味わった。【高木茂久】