今回の「東京五輪メモリアル」は開催年、1964年(昭39)にタイムスリップします。東海道新幹線が開通し、巨人王貞治選手は日本記録(当時)の55号ホーマーを記録。「平凡パンチ」が創刊、街にはVANに代表されるアイビー革命が起こり、銀座は「みゆき族」が闊歩(かっぽ)しました。人々は「明日があるさ」(坂本九)と歌い、東京五輪金メダル、バレーボール全日本女子チーム大松博文監督の「俺についてこい!」は流行語になりました。奇跡的な戦後復興、飛躍的な経済発展-そんな上げ潮ムードの中、東京五輪は挙行されました。

「東京五輪音頭」100万枚突破記念パーティーで、新人女性歌手をバックコーラスに歌う三波春夫。
「東京五輪音頭」100万枚突破記念パーティーで、新人女性歌手をバックコーラスに歌う三波春夫。

<数寄屋橋は撤去され日本橋は高速道路下に>

 ランドセルを教室に放り込むと、生徒たちは一目散に校庭へ駆けだし、朝礼台の前に整列した。

 「さぁ、行くぞぉ!」

 大学を出たばかりのうらなり、男性教師の裏返ったような声音(こわね)が響いて、生徒たちの歓声が上がった。

 東京五輪の翌年、1965年(昭40)晩春のことと記憶している。

 小学校6年生になっていた。

 市川崑総監督製作による映画「東京オリンピック」の見学、“課外授業”に生徒たちは引率されてゆくのである。他の学校がどうであったか知らないが、多くの学校はこの映画を生徒たちに見せたのではなかったか。

 俳優小沢昭一が生まれ育ち、松竹撮影所、「蒲田行進曲」に代表される“場末”の街にはかつて駅東口に6館、西口に4館の映画館(戦前は27館という記録もある)がひしめいていた。登校と同時に学校を出発したのは映画館の営業前、早朝の映写であったのかも知れない。とあれ、生徒たちにとって「特別の日」であったことは間違いない。

<衝撃の課外授業>

 「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」という字幕に続いて白熱の太陽が昇る。聖火が各地の原風景をなぞり、聖火台に巨大な火が立ち上がる。望遠レンズを駆使した103台のカメラ。スクリーンいっぱいに映し出される選手の表情、筋肉の躍動するスローモーション、競技前後の人間模様、独特の撮影手法による競技シーンといった映像の数々は、生徒たちに衝撃を与えたはずである。

 なるほど、この映画が当時のオリンピック担当大臣から「記録性に欠ける」とクレームを受け、有名な「記録か芸術か」論争にまで発展したのは事実である。そもそも、市川崑は「我々はこの映画を単に正確な記録として製作するのではない」と撮影前から宣言していたし、この映画は、元はといえば黒沢明が引き受けるべき仕事であったのである。

 もっとも彼が製作しても、オリンピック担当大臣が期待するような「記録映画」にはならなかったろう。興行総収入25億円(当時)の大ヒットとなったこの作品はその斬新さ、新味によって、戦前からの、旧態依然とした記録至上主義を吹き飛ばしたのである。

 例えば映画の、冒頭を思い出してもらいたい。

 ブルドーザーがうなりを上げ、五輪会場建設のためのビル解体工事が始まる。開発ラッシュは日ごと高まり、皇居外堀を埋めて高速道路が造られることになり、数寄屋橋は撤去された。日本橋は高速道路の下に甘んじることとなった。

 江戸の空気は関東大震災、東京大空襲を経て、すでに霧散していたが、高架下・日本橋に代表されるように、その片りんすら失われたことに対し後年、高速道路撤去論争が巻き起こる。が、あの時代、限られた工期の中で仕上げられた未来都市・東京は当時の“全知全能”を傾けた野心であり、戦後の、近代土木の礎となったはずである。

 江戸の、「水の都」を象徴した掘割の上を縦横無尽、まるでジェットコースターよろしく高速道路を張り巡らした“手塚治虫的風景”。先人の功績は、その“異形”はともかく、正当に評価されるべきだろう。

9月開通予定のモノレールに試乗し、ご満悦の来日中のフランス俳優アラン・ドロン(1935年11月18日生まれ)=1964年6月13日
9月開通予定のモノレールに試乗し、ご満悦の来日中のフランス俳優アラン・ドロン(1935年11月18日生まれ)=1964年6月13日

<国民的英雄力道山亡きあと「巨人大鵬卵焼き」>

 戦後の国民的英雄・力道山は東京五輪の前年1963年(昭38)暮れ、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団組員にナイフで刺され、直後の12月15日、満39歳で早々に“退場”してしまったが、「巨人・大鵬・卵焼き」のキャッチフレーズは「昭和元禄」を象徴した。

 優勝32回、6連覇2回、全勝優勝8回、45連勝-大鵬の初優勝は60年(昭35)の11月場所、引退は71年5月場所である。プロ野球・巨人軍は50年代からの強豪であったが、「青バット大下弘、赤バット川上哲治」の時代はすでに遠のき、長嶋茂雄・王貞治のON砲が全盛を迎え、「赤バット」川上哲治は監督となり、V9を達成する。

 64年3月20日の開幕戦(東京五輪に備え開幕が早められた)、国鉄(現ヤクルト)の先発、金田正一から後楽園(現東京ドーム)場外にあったローラースケート場前、喫茶店の屋根直撃の150メートル級特大ホームランを放ったのは巨人王貞治であったし、8月6日の国鉄戦7回、やはり好投する金田の4球目に猛然とホームスチールを敢行したのは長嶋茂雄であった。

 砂塵(さじん)舞い上がるホーム上、富沢宏哉球審の判定は「アウトォ!」。「ノータッチ、ノータッチ!」とエキサイトした長嶋は富沢を突き飛ばした。打席の5番広岡達朗が「おれのバッティングを信用しないのか」とぶぜんとしたのは当然だが、後に「ミスター」と称される、この男の天衣無縫のプレーは、それまでのプロ野球に新風を吹き込み、人々は喝采した。

<クーラー自動車カラーテレビ「新・三種の神器」>

 53年(昭28)にテレビ放送が始まり、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」と呼ばれ、59年の「皇太子明仁親王成婚パレード」を機に普及した。そしてクーラーや自動車、カラーテレビは東京五輪を契機に「新・三種の神器」としてのし上がる。白黒からカラーへ、日本はきらびやかな「原色」の時代へと突入してゆくのである。

 最後には太陽が沈み、聖火が消え、そして「聖火は太陽へ帰った。人類は4年ごとに夢を見る。この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか」-映画「東京オリンピック」はこう締めくくっている。

 2020年夏。2度目の東京五輪に一体、我々はどんな夢を見ればよいのだろうか。【石井秀一】

(2015年10月28日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。