88年前、サムライが海を渡った。ホッケー男子は1932年ロサンゼルス・オリンピック(五輪)で銀メダル、日本団体競技で初の五輪メダルだった。世界恐慌の影響で欧州が揺れる中で初出場。世界最強インドに敗北も地元米国に勝利した。銀メダリストFW宇佐美敏夫(享年83)は、戦後もホッケー界のために尽力。64年東京五輪は競技運営委員長として携わった。52年ぶりの五輪出場を前にして、戦前から脈々と続いてきた、ホッケー男子日本代表「サムライジャパン」の歴史をひもとく。(敬称略)【取材・構成=益田一弘】

32年ロサンゼルス五輪ホッケー男子代表。前列右端が宇佐美敏夫(日本ホッケー協会提供)
32年ロサンゼルス五輪ホッケー男子代表。前列右端が宇佐美敏夫(日本ホッケー協会提供)

その銀メダルには箱がない。「OLYMPIAD LOSANGELES 1932」。表面に勝利の女神ニケ、裏面は群衆に担がれる勝者。ホッケー男子が獲得したメダルは代替えのケースに収められている。当時のFW宇佐美敏夫の長男栄男(76)は「黄土色で厚さ1センチぐらいの紙の箱だったかな。角が壊れて、箱自体もなくなった。子どものころは転がして遊んでいたね」。88年の月日が流れて、記憶は薄れかけている。しかしホッケーは、確かに団体競技最初の光だった。

1932年のホッケー男子日本代表
1932年のホッケー男子日本代表

1932年(昭7)6月30日、代表候補55人から絞り込まれた「サムライジャパン」13人が横浜港を出発した。太洋丸に乗り、宇佐美は馬術で金メダルをとるバロン西(西竹一)と交流を深めた。7月18日の到着まで甲板上でスティックワークを練習した。太平洋上の日付変更線を通過した際は、仲間が「なんだ別にラインが引いてあるわけじゃないのか」と言って、皆で大笑いしたという。日本団体競技としてホッケーと水球が五輪に初出場した。

32年ロサンゼルス五輪ホッケー男子。日本は9-2で米国に勝ち、銀メダルを獲得した(日本ホッケー協会提供)
32年ロサンゼルス五輪ホッケー男子。日本は9-2で米国に勝ち、銀メダルを獲得した(日本ホッケー協会提供)

当時は1929年の世界恐慌の影響から欧州各国が遠く離れた米ロサンゼルス大会への選手派遣を見送っていた。ホッケーは、世界最強のインド、日本、地元米国の3カ国が出場。8月4日のインド戦は1-11で敗れた。宇佐美は審判の厳格なレフェリングに苦しんだ。8日の米国戦は観衆2万人。広瀬藤四郎監督は「この試合こそ日本ホッケーチームの浮沈を決するもの」。結果は9-2の快勝で五輪スタジアムに日の丸が揚がった。1勝を挙げての銀に意味があった。同大会の水球は4位だった。広瀬監督は大会報告書で「夢想だにしなかった好成績」とした上で「世界的不景気のために欧州諸国の参加を見なかったことにもよるけれども、最大の原因は選抜チームにかかわらず、各選手の間にチームワークがよくとれていたことである」。

なぜホッケーが1932年の五輪に選手を派遣できたのか。その理由は長い歴史にある。1906年(明39)11月にアイルランド生まれのウィリアム・D・グレー牧師が慶大に競技を紹介。2カ月後には慶大ホッケークラブ対横浜外国人クラブで初の試合を開催。1922年(大11)に陸軍戸山学校教官・加藤真一少佐が校技として採用。加藤少佐は東宮職御用掛として皇室の体育に関わりがあった。昭和天皇の皇太子時代にホッケーの相手を務めており、皇族にも広がった。1924年(大13)3月30日、赤坂御用地広芝(現東宮御所)では宮様チームと戸山学校で試合が行われた。皇室としては珍しい団体競技の試合は午前10時から午後2時20分まで続いた。日本選手権は昨年で第93回を数える。ロサンゼルス大会の段階ですでに大学中心に多くのチームがあった。

左から3人目が晩年の宇佐美敏夫(家族提供)
左から3人目が晩年の宇佐美敏夫(家族提供)

宇佐美は1936年ベルリン大会にも派遣された。3大会連続を目指した1940年東京五輪は日中戦争で幻となった。戦後は日本ホッケー協会理事、副会長を歴任。1964年東京五輪では競技運営委員長を務めた。栄男は大学2年時の東京五輪を覚えている。インド対パキスタンの決勝で両軍がスティックを振り回す乱闘が発生。役員席の宇佐美がグラウンドに入って仲裁した。栄男は「試合中に入っていって英語で止めていた。お、すごいなと思った」。当時、高級洋食器メーカー鳴海製陶の社長を務めており、選手村で食器も提供している。

日本ホッケー史上最大の不幸にも直面している。出場確実だった72年ミュンヘン大会で、日本体育協会事務局が国際連盟に予備エントリーを忘れた。同年1月に「日本は出場権を得るための予備エントリーをしていない」と外電が伝えたことで発覚。日本オリンピック委員会(JOC)は「この責任のすべてはJOCにあり、ホッケー協会に責任は全くない」と謝罪。当時、副会長の宇佐美は「多大なるご迷惑をおかけしたことを深くおわびいたします。日本のホッケー界を立ち直らすために、なにとぞ今後とも皆様の一層のご協力を願いいたします」と頭を下げた。

宇佐美は48歳まで実業団でプレーした。その熱意は子供たちに伝わった。栄男も孫の実(39)もホッケー経験者。宇佐美は栄男に「インドとの試合で、決定機に必死で走ってスティックを伸ばしたら防げた。運動は絶対にあきらめちゃいけない」と語ったという。晩年は「見るスポーツではなく、やるスポーツになってほしい」と願っていた。孫の実は祖父がホッケーにささげた情熱の証しとして、20年東京五輪を機に銀メダルの箱を復元したいと望んでいる。

太平洋を渡った13人の銀メダルから88年。団体競技初メダルを獲得したホッケーの歩みは決して派手ではないが、脈々と受け継がれてきた。栄男は2度目の東京五輪に向けて「優勝とはいわないが、入賞はしてほしい」と期待する。72年ミュンヘン五輪で途切れた「サムライジャパン」の五輪ストーリーは今夏、半世紀ぶりに再び動きだす。(敬称略)

◆1932年ロサンゼルス五輪 04年セントルイスに続く2度目の米国開催。世界恐慌の影響で欧州各国が選手派遣を見送り。参加は39カ国1403人で、28年アムステルダムの46カ国3015人、36年ベルリンの49カ国4069人に比べて半数以下だった。日本は陸上、水泳、馬術、ホッケー、ボート、レスリング、ボクシング、体操、スポーツ芸術の9競技で131人(女子16人)を派遣。競泳が金6個の大活躍。馬術大障害の西竹一と陸上3段跳びの南部忠平も金メダル。陸上男子100メートルでは「暁の超特急」吉岡隆徳が決勝進出して6位入賞した。

■1932年の世相

◆出来事 5・15事件。チャプリンが初来日。東京競馬場で初のダービー、ワカタカが優勝。上野駅新築工事完了

◆流行語 「話せば分かる」「問答無用」「欠食児童」

◆商品 シャンプー、ヨーヨー

◆映画 「弥太郎笠」「生まれてはみたけれど」「三文オペラ」

◆文学 谷崎潤一郎「盲目物語」堀辰雄「聖家族」

◆流行歌 藤山一郎「影を慕いて」四家文子「銀座の柳」

東京五輪のホッケー日本代表メンバーに選ばれた山陽高OBの6選手。前列右から山岡敏彦、橋本征治、田中博司、後列右から松本紀彦、木原征治、高島昭男、広島・山陽高ホッケー部の原監督
東京五輪のホッケー日本代表メンバーに選ばれた山陽高OBの6選手。前列右から山岡敏彦、橋本征治、田中博司、後列右から松本紀彦、木原征治、高島昭男、広島・山陽高ホッケー部の原監督

1964年7位メンバー山岡敏彦(78)

1964年のサムライは、2度目の東京五輪で表彰台に近づく活躍を期待している。同代表の山岡敏彦(78)は「銅メダルに近づくといいな。最低でも入賞してほしい」と話した。

広島・山陽高で競技を始めて明大2年で代表入り。自国開催の五輪に向けて、日本協会は3年計画でチームを強化。1カ月間のインド遠征も行った。山岡は「列車で寝泊まりした。都市に着くと貨車を降ろして試合にいった」。五輪会場・駒沢競技場の美しい天然芝を覚えているという。

山岡敏彦さん
山岡敏彦さん

目標は6位入賞。「どうにかせにゃいかんと。燃えていた」。しかし予選A組で3勝3敗と4強進出を逃した。順位決定トーナメントでもドイツに敗れて7位。目標にあと1歩だった。現在は東京・神田でお好み焼き「カープ東京支店」を営む山岡は「今のラグビーみたいに盛り上がってほしい」と願っている。


日本男子の五輪成績
日本男子の五輪成績

◆2020年サムライジャパン

2020年のサムライは、メダルを目標に掲げる。68年ローマ以来52年ぶりの五輪出場。開催国枠もあったが、18年ジャカルタ・アジア大会で優勝してアジア大陸王者としての出場枠を確保した。アイクマン監督は「五輪は出るだけじゃなくて、メダルが目標だ」と宣言。世界ランキング15位から、ホームの声援をバックに旋風を巻き起こす。



◆2020年さくらジャパン

2020年のさくらは、真夏の満開を狙っている。女子代表「さくらジャパン」は5大会連続五輪出場。04年アテネ五輪の8位が最高成績だが、ファリー監督は「目標は金メダル」を掲げている。五輪前にはスポンサー冠大会「SOMPO CUP」でスペイン代表との強化試合も予定。世界ランキング14位から、ビッグサプライズを狙う。