延期になった東京大会、練習もできず、先も見えない環境でも、選手たちの思いは変わらない。苦しく、厳しい状況の中でオリンピック(五輪)を戦ったオリンピアンたち。過去の五輪を取材した日刊スポーツの記者たちが、生で見た選手の力。苦境を脱して輝いた感動のシーンを振り返る。今回は04年アテネ大会から前回16年リオデジャネイロ大会。

■対応 04年アトランタ柔道女子48キロ級金 谷亮子

04年アテネ五輪 連覇を達成し、髪を振り乱し喜ぶ谷亮子
04年アテネ五輪 連覇を達成し、髪を振り乱し喜ぶ谷亮子

柔道女子48キロ級で長く頂点に君臨した谷亮子は、けがを乗り越えての優勝が本当に多かった。04年アテネ五輪の時も、6月に右足首軟骨剥離、7月には左足首を痛めて3週間も柔道ができず、大会前にまともな乱取りができたのはたった6日間しかなかった。

それ以前、最大のピンチが01年世界選手権(ミュンヘン)で、試合16日前に右膝を負傷して全治3カ月の診断。なのに5試合中3試合で一本勝ち。奇跡のV5といわれた。03年世界選手権(大阪)も開幕直前に右膝靱帯(じんたい)を痛めたが、ライバルに悟られぬよう隠し続けて6連覇。弱音を吐いたことがない彼女にとって、けがは逆境と呼ぶに足らないものだったのかもしれないが、それは試練を受け入れる心構えができていたからだ。

この頃よく口にしていた言葉が「対応力」。けがをした後の対応だけでなく、優勢の時、劣勢の時、残り時間が少ない時、そして対戦相手への対応…。アテネの戦いぶりは初戦から全く危なげなく攻め続け、けがをしていたことすら忘れさせた。28歳を迎えていた谷は、自身の対応力に確信を持てたことで、さらに自信を深めていたように思う。【岡山俊明】

◆谷亮子(たに・りょうこ)1975年(昭50)9月6日、福岡県生まれ。小学2年で柔道を始め、福岡工大付から帝京大、日体大大学院、トヨタ自動車で活躍。15歳の時、福岡国際女子柔道で最年少優勝。五輪は5大会に出場し、金2、銀2、銅1を獲得。世界選手権は6連覇を含む7度、全日本選抜体重別は11連覇を含む14度の優勝など、数々の記録を持つ。10年に現役を引退。03年12月に結婚した谷佳知氏との間に2男。


■意地 08年北京陸上男子400メートルリレー銀 末続慎吾

08年北京五輪 左から朝原宣治、末続慎吾、高平慎士、塚原直貴
08年北京五輪 左から朝原宣治、末続慎吾、高平慎士、塚原直貴

08年北京五輪の陸上男子400メートルリレーで、日本は五輪の男子トラック種目で初のメダルを獲得した。不動のメンバーは第1走者から塚原直貴、末続慎吾、高平慎士、朝原宣治。日本に、まだ100メートル9秒台の選手がいなかった時代。メンバーをほぼ固定し、今と同様にバトンパスの精度を世界トップまで高め、個人の走力を補いつつ戦った。

4人の中で最も苦しんでいたのは、末続だ。03年世界選手権男子200メートルで銅メダルを獲得した実力者だが、このシーズンは不調に陥り、日本選手権では8年ぶりに日本人に敗れて3位。故郷の熊本に帰省してきっかけをつかもうとしたが、五輪の個人種目でも200メートル1次予選で敗退した。

そして迎えた400メートルリレー。末続は意地で走った。個人種目とは別の力が湧き上がるのだろうか。予選は1組2着で決勝進出。末続は「今回の五輪は僕1人の力ではとてもかなわなかった。じゃあ、僕は何ができるかというと、1走の塚原と3走の高平が思いきり走れる環境をつくること。それを形にした」と言っていた。個人種目の悔しさは胸にしまい、チームのために力を振り絞った。実力上位とみられた米国、ナイジェリア、英国がバトンのミスや反則で敗退するなど、ありえないことも重なった。決勝はさらに結束して銅メダル。現役を退くアンカー朝原の花道を飾った。

その10年後。金メダルだったジャマイカ選手がドーピング違反で失格となり、日本は銀メダルに繰り上がった。昨年5月、銀メダルの授与式が行われ、4人が顔をそろえた。末続はこの場で、アンチドーピングを訴えた。今年6月で40歳になるが、メンバーのうち1人だけ、現役を続けている。【佐々木一郎】

◆末続慎吾(すえつぐ・しんご)1980年(昭55)6月2日生まれ、熊本県出身。九州学院高-東海大-ミズノ。15年3月末でミズノを退社し、同4月からプロ選手として独立。自身のチームEAGLERUN所属。16年4月から星槎大特任准教授。五輪は00年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続出場。03年世界選手権200メートル銅メダル。200メートルの20秒03は日本記録。100メートル10秒03は日本歴代7位。178センチ、67キロ。


■自立 12年ロンドン卓球女子団体銀 福原愛

12年ロンドン五輪 決勝進出を決め、左から福原愛、石川佳純、平野早矢香は泣きながら歓喜の抱擁
12年ロンドン五輪 決勝進出を決め、左から福原愛、石川佳純、平野早矢香は泣きながら歓喜の抱擁

卓球ニッポン悲願のメダルの瞬間を、福原愛はベンチで見守った。身長155センチの小柄な体の中で、心臓の鼓動が高鳴った。目の前で、平野早矢香、石川佳純組のダブルスが勝つと、両手で顔を覆い「五輪のメダルが夢だった。夢はかなうんだ」と号泣した。

12年ロンドン五輪卓球女子団体準決勝。相手のシンガポールは、日本が06年世界選手権で勝ったのが最後の強豪だった。福原は第1試合のシングルスで、同五輪個人戦銅メダルのフェンに勝利、その勢いで日本は3-0で快勝。五輪史上初のメダルが決まった。

福原の右肘は3歳から続けてきた歴戦でボロボロ。1年前に痛みを感じながらも、この日のため耐えてきた。五輪期間中は痛み止めを打ちながら日本を引っ張った。五輪直後に、右肘関節内の滑膜ひだを取り除く手術を受けた。

日本中の誰もが知っている「天才少女」。そして両親に鍛えられる「泣き虫愛ちゃん」だ。しかし、その代名詞に、福原は悩まされた。過度な期待が先行。その重圧からか、12年1月の全日本まで、一般のタイトルから見放された。

09年だったと記憶する。兄秀行さんに呼び出された。福原が、今の気持ちを話したいというものだった。約1時間も「アスリートとして自立したい。北京五輪までは半、半人前(半人前の半分)だった」と、両親からの自立を打ち明けた。

08年北京五輪団体3位決定戦で韓国に敗れた後、悩み続けた4年間。圧倒的な人気の陰に隠れた苦悩と、右肘の故障をはね返し、初めて手にしたメダルに、福原は「この一瞬で報われた気がする」と涙を拭った。【吉松忠弘】

◆福原愛(ふくはら・あい)1988年(昭63)11月1日、仙台市生まれ。初出場の04年アテネ五輪で、シングルス16強、08年北京五輪シングルス16強、団体4位。12年ロンドン五輪シングルス8強、団体銀メダル。16年リオ五輪シングルス4強、団体銅メダル。同年9月、リオ五輪台湾代表の江宏傑と結婚。17年10月長女あいらちゃんを出産、19年4月長男じゃんくんを出産。155センチ。


■覚悟 16年リオデジャネイロ競泳女子200メートル平泳ぎ金 金藤理絵

16年リオデジャネイロ五輪 金メダルを獲得し涙を流す金藤理絵
16年リオデジャネイロ五輪 金メダルを獲得し涙を流す金藤理絵

リオ五輪の3年前の13年8月の世界選手権。金藤理絵「引退示唆」とわずか16行の原稿を書いた。「次は考えてない」と明言。その時は本人も、3年後に金メダルを獲得するとは夢にも思っていなかったはずだ。

19歳の北京五輪7位入賞も、10年に腰のヘルニアを患うと、水泳人生が狂い出す。本命視された12年ロンドン五輪落選で、引退の2文字がちらつく。その後は前述の13年世界選手権を含め、引退危機の連続。周囲の慰留で、何とか現役を続けたが、リオ五輪前年15年世界選手権でも屈辱を味わう。

8歳下の渡部香生子の金メダルの一方、消極的な泳ぎで見せ場はなし。3位が3人同タイムの5位までが表彰台に上がる中で6位。永遠にメダルから見放されたかのような屈辱に、引退を口にする条件はそろっていたが、この時は違った。

愛用の水着メーカー「フットマーク」の小林智也氏から厳しく言われた。「会社として応援しているのは、死ぬ気で頑張るアスリート。弱気で攻めきれない金藤さんを応援しているんじゃない」。普段から優しく励ましてくれた恩人の言葉は胸に突き刺さる。ふがいなさに涙があふれたが「覚悟を決めて頑張る」と翌年の五輪へ決心をつけた。

リオ五輪年は年明けから好記録を連発。その実力と温厚な人柄で初の女子主将にも抜てきされ、本番に臨んだ。200メートル平泳ぎ決勝では、100メートルすぎでトップに立つと、最後は体1つ分の差をつける完璧なレースで世界の頂点に立った。人は変われる。努力すれば報われる。人として大切なことを、教わった。【田口潤】

◆金藤理絵(かねとう・りえ)1988年(昭63)9月8日、広島・庄原市生まれ。広島・三次高3年で総体優勝。東海大に進み、08年北京五輪女子200メートル平泳ぎ7位入賞。12年ロンドン五輪は出場権を逃す。13年世界選手権4位、15年同6位。16年2月の女子200メートル平泳ぎで7年ぶりに自らの日本記録を更新。同4月の日本選手権で今も残る2分19秒65の日本新。18年3月に引退。結婚も明かし、昨年11月に第1子となる女児出産。