オリンピック(五輪)に取りつかれた男がいる。西正文氏(59=現永和商事ウイング監督)は野球で88年ソウル五輪、92年バルセロナ五輪代表に連続出場した。プロ入りはせず、ひたすらに代表ユニホームで戦うことを望んだ。

左手に88年ソウル五輪銀メダル、右手に92年バルセロナ五輪銅メダルを持ち、笑顔を見せる西正文氏
左手に88年ソウル五輪銀メダル、右手に92年バルセロナ五輪銅メダルを持ち、笑顔を見せる西正文氏

■米国で自分の映像が

五輪には「最後」がある。84年ロス五輪では吉田幸夫が現在、唯一無二となっている金メダルの胴上げ投手となった。陽もあれば陰もある。阿部慎之助は00年シドニー五輪3位決定戦、08年北京五輪準決勝と2度も大一番の韓国戦で敗れ、最後の打者となった。「途方にくれた」。苦い思い出が年月を経て薄まっても、消え去ることはない。

西も「最後」を刻んだ野球人だった。約30年前。今、大谷も立つエンゼルスタジアムのスタンドにいた。知人に誘われ、メジャー観戦に訪れた。マウンドにはジム・アボット。場内に88年ソウル五輪の映像が流れる。隻腕のハンディを抱えながら、最後は日本の打者を三ゴロに打ち取り、野球大国に金メダルをもたらすシーン。「背番号1が寂しそうに一塁に走っている。まさか米国でも見ることになるとは。うそみたいなホンマですよ(笑い)」。陽気な関西弁がオブラートに包むが、当時の悔いを他人が推し量ることはできない。

■トンボが飛んできた

西はロス五輪を直前にした代表候補合宿で初めて招集された。五輪出場はかなわなかったが俊足巧打の24歳。プロも着目していた。だが国内最高峰の道を選択しなかった。「プロ野球は小さい時は夢だったが、限りなく近づいた。五輪という世界の野球を肌で感じるチャンスがあるなら、そちらの方が魅力的で興味があった。やっぱり日本代表ですから」。分岐点で、85年から代表への道と進んだ。

刺激的な日々だった。「上から投げなさい、体で止めなさいとか教わってきたが、外国の選手を見ると好き勝手やっているように見える」。世界最強とうたわれたキューバを筆頭にパワーとスピードに圧倒された。「ボールが大きくゴーっと来る感覚。その瞬間にはミットに入っている」。格下と評されたオーストラリア、欧州勢もあなどれなかった。もちろんアジアも韓国、台湾は日本と同等か、それ以上だった。世界は広かった。

いくつもの流儀を学んだ。ロス五輪の松永怜一監督は、併殺守備の練習中にトンボを持って近づいてきた。「地面をならしてくれるのかな」。気遣いではなかった。二塁送球を受けようとベースに入ると、無言で足元にトンボが飛んできた。「これぐらいよけられなかったら、ケガをする」と言われた。併殺崩しの危険スライディングを想定した練習だった。

88年9月、ソウル五輪 日本対台湾 得点が入り、ジャンプして大喜びする西正文(手前)と野村謙二郎
88年9月、ソウル五輪 日本対台湾 得点が入り、ジャンプして大喜びする西正文(手前)と野村謙二郎

■24人枠ならきっと…

今日の侍ジャパンでも重宝される、複数ポジションをこなす能力が求められた。ほぼ生粋の二塁手だったが、代表では遊撃手に回された。特段の説明もなかった。代表では常識。後にバルセロナ五輪の山中正竹監督に「(五輪メンバー)20人だからお前を選んだ。24人ならきっと入れていない」と言われ、納得がいった。少数精鋭ではスペシャリストよりもユーティリティープレーヤーの希少性が増す。

未知との遭遇が楽しかった。「本職じゃないから楽なんです。遊撃手はすべてが(一塁方向に)純な動きになるのでストレスはない。いつも二塁手で逆の動きをしている人が純な動きになると水を得た魚になる」。当時では異次元の150キロ超の速球を体感することも至福だった。「強い国とやる時は気持ちがいい。楽しいじゃないですか。日本で見たことのない球を打って帰ったら、すごい打者になっているわけですから」。純な境地で戦えた。

■大学生2人が倒れて

だが五輪で悔恨を味わう。ソウル五輪決勝の米国戦。2点を追う9回、笘篠、野村と先頭2人の大学生は三ゴロに倒れる。「出塁すれば可能性がある。(左打者で)逆方向に打とうとすれば、シャンクしてファウルになる。何とかセンターの方に打つと思ったが、圧に負けた」。まさかの3連続三ゴロ。「最後の打者というのをどう捉えたらいいのかを考えた。あまりにも淡泊に最終回に行きすぎたのかなと。前は学生2人だったが、(自分自身)もう少し何かなかったのかと心残りがあった。でもその時は28歳の年。社会人で10年目で、次は考えられなかった」と空白だった。

88年9月、ソウル五輪の米国戦後に記念撮影する日本代表。前列右から2人目が西正文氏
88年9月、ソウル五輪の米国戦後に記念撮影する日本代表。前列右から2人目が西正文氏

■五輪の借りを五輪で

ソウル五輪後、代表に呼ばれないこともあった。「もう外れたとも思った」。だが山中監督から、また声が掛かった。主将の高見に「また呼ぶつもりだったんですよ」と言われたが半信半疑。それでも五輪の借りを五輪で返す時が来た。

91年アジア選手権はバルセロナ五輪予選を兼ねていた。ソウル五輪はロス五輪の金メダルで出場権を得て、予選は免除されていた。アジアを勝ち抜かなければならない、ひりつくような初の五輪予選。決勝リーグでオーストラリアに敗れ、瀬戸際にも立たされた。

だが五輪の戦いを終焉(しゅうえん)させてしまった男に「最後の瞬間」が訪れる。台湾戦、延長10回2死満塁で五輪出場を決めるサヨナラ安打を放った。「バルセロナ五輪は公開競技からようやく正式種目になる大会でもあった。肩の荷が下りた」。呪縛から解き放たれた。

■「はい、打てますよ」

2度目の五輪はチーム最年長の31歳で迎える。出番は予選リーグ3戦目のキューバ戦から。「山中さんは僕がキューバ、台湾に慣れているという部分で使ったと思う。全然メンバーが替わっていない。強いところとやるときは気持ちがいいんです」。酸いも甘いも知るベテランは圧を当然のごとく受け止め、さらに興じた。準決勝台湾戦の前夜。山中監督に高見とともに部屋に呼ばれた「(台湾の)郭李を打つために来て、最後はキューバに勝つ。そこまでは絵に描いた通り。明日はお前たちが打たなければいけない。打てるのか?」「はい、大丈夫ですよ。打てますよ。任せといて下さい」。決戦直前と思えない軽いノリにも思える。「打てるか打てないか分からないが、試合に出たいじゃないですか。そのために呼んでいるんでしょうと。それに長く一緒にやってきた。こう答えたらスムーズというのがある。それがチームでしょう」。達観と信頼。長い代表生活で培った財産だった。

■打率5割2分6厘

準決勝台湾戦は3打数3安打。金メダルには届かず敗れ、3位決定戦の米国戦に回るも2打数2安打と、大一番で5の5と縦横無尽の働きだった。銅メダルを死守し、4年前のシーンに区切りをつけた。19打数10安打、打率5割2分6厘は規定打席にこそ達していないが“歴代最高打率”。2大会で通算15安打もアマチュア選手としては史上最多だ。五輪3大会出場で最多5勝を誇る杉浦正則は「ミスターアマ野球」と評されるが、西もアマチュア野手として右に出る者はいない実績を残した。

92年バルセロナ五輪で銅メダルを獲得し胴上げされる山中監督
92年バルセロナ五輪で銅メダルを獲得し胴上げされる山中監督

何よりの称賛は後のレジェンドのコメントに凝縮されている。3大会連続のメダルを獲得し、一夜明けた92年8月6日付の日刊スポーツの紙面に掲載されている。

近鉄野茂英雄投手 銅メダル、おめでとうございます。前回のソウルでは西さんには大変お世話になったので、今回もぜひ頑張ってほしいと応援していました。みなさんに、お疲れさまでした、と言いたい気持ちです。


ソウル五輪を戦った後輩からの祝福だった。多くを語らない野茂が個人名を挙げて、喜んだ。西は「人望があったんですね」と冗談めかすだけで、信頼を生んだ何かを話すことはなかった。だが長年、世界としのぎを削った野球を心から楽しみ、代表に野球人生を注いだ男へ野茂からもリスペクトが払われた。

現役引退後、指導者に転じた。代表でコーチを務め、社会人野球で監督として指揮してきた。五輪での教訓を選手に伝え続けている。

西 最後のバッターにはなるなと言っている。9分の1の確率であること。次の試合につながる最後の打者なのか、半年や1年間、苦しみを持ち越さなければいけないのか。僕はそれぐらい重たいことだと思っている。

1年後に延期となった東京五輪は、どんな結末が待っているのだろうか。30年以上の時を超えた教えは、侍ジャパンへのエールにもなる。(敬称略)【広重竜太郎】

◆西正文(にし・まさふみ)1960年(昭35)11月25日、兵庫県生まれ。尼崎小田高から大阪ガスへ。2度の五輪出場や、93年まで都市対抗に10年連続出場を果たして同年で引退。大阪ガスでコーチ、日本野球連盟の競技力向上委員、履正社学園の監督などを経て、12年から永和商事ウイング監督に就任。14年に都市対抗、15年に日本選手権とともに初出場へ導いた。右投げ左打ち。


ソウル五輪出場選手の成績
ソウル五輪出場選手の成績

◆88年ソウル五輪VTR(公開競技) その後プロで活躍する野茂(新日鉄堺)潮崎(松下電器)古田(トヨタ自動車)らが主力。準決勝で地元韓国と対戦。8回に古田の犠飛で勝ち越し、3-1の勝利。米国との決勝では生まれつき右手の手首から先がないハンディを負うアボット投手を打ち崩せず、3-5で敗れ連覇ならず。


バルセロナ五輪出場選手の成績
バルセロナ五輪出場選手の成績

◆92年バルセロナ五輪VTR この大会から正式競技。1次リーグで完封負けを喫した台湾と準決勝で対戦。小桧山(日本石油)杉浦(日本生命)の両投手が3本塁打を浴び5失点。打線も予選に続いて対戦した郭李建夫(93年阪神入り)に抑えられ、2-5で決勝進出を逃す。3位決定戦では米国に8-3で勝ち銅メダル。