2年ぶり5度目の総合優勝を果たした青学大の原晋監督が「教え子であり、同士」と呼ぶ伝説の主将がいる。原監督体制の1期生で、4年時は主将を務めた桧山雄一郎さん(34=持田製薬勤務)。原監督が着任後、入学した世代で唯一、箱根に出られなかった。黄金時代につながる礎を築いたのは桧山さんだった。

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桧山さんは「まずはお疲れさまと言いたいです。選手たちが原監督を男にしてくれた」。そう母校の優勝を喜んだ。原体制に変わり、1期生。現役時は今の栄光など信じられなかった。

04年の入学当初は「こんなので箱根に出られるのか」。雨なら朝練はなし。前日に酒を飲んだ者は走らない。門限もなく、部屋にパチンコ台を持ち込む者もいたという。選手間の意識のずれも生じ、退部者も出た。“外様”の原監督の足を引っ張ろうとするOBもいて、部の空気は最悪に。前評判は高かったが、3年時の箱根駅伝予選会は16位。一体感と無縁だった。

そんな苦境で主将に。ただ結果は出ていなくても、当時から原監督の指導についていった選手は着実に成長していた。まず目指したチーム像はシンプル。「監督が言ったことは最低限やる」。それを徹底させた。「それが僕らの代でやるべきこと」。また東洋大や中央学院大などに出稽古し、練習、制度を見習った。

「朝5時半までに各自アップを済ます」「食事は時間通り全員で食べる」「22時までに帰寮。1分も遅れてはならない」など今の規則のもとを作った。「想像を絶するぐらいのブーイングの嵐」を押しきり「2人部屋」も導入した。当時は快適な1人部屋。「はっきり言って俺も2人部屋は嫌だ。でも箱根駅伝は出たいよね」と何度も何度も訴えた。あえて「引っ張る主力」と「ダメだった選手」を同部屋に。強豪校を見習い、意識の差を埋め、一体感を高める狙いだった。

本音で語り合い時間を共有すると、今までにない一体感が育まれた。最も仲がよかった選手が門限を破ってしまった時に「何をやってんだ。去ってくれ」と泣きながら怒った。迎えた予選会、手応えは十分も10位。あと1つだけ届かなかった。桧山さんも直前に骨折し、走れなかった。「あれよりつらい事は今までないですね」。ただ桧山さんたちが方向性を定めたチームは翌年、箱根駅伝に33年ぶりに返り咲いた。

今も同期に会うと「今と、俺たちの時の青学。どっちに入りたい?」と決まって、こんな話になる。

「箱根駅伝で優勝してスポットライトを浴びるのもすごい。でも僕らの世代はつらい時代を生き、いろんな経験もした。みんなで試行錯誤して、かけがえのない、中身の濃い4年間。こっちを選ぶよね」

結論はいつも同じだ。【上田悠太】