15年6月21日、現在バドミントン男子シングルス世界ランキング1位の桃田賢斗(25)は父の日に合わせ父信弘さんにメールを送った。「今日父の日だから連絡してみました!(中略)仕事は相変わらず大変だと思うけど、無理しないように頑張ってください」。翌22日の返信には、こう記されていた。「人間万事塞翁(さいおう)が馬を忘れず励んでください」。

人間万事塞翁が馬。古い中国の逸話から出来た言葉で、塞に住んでいた翁が馬を持ってきて福をもたらしたり、一方で災いをもたらしたことから、転じて人生における幸、不幸は予測できないという意味を持つ。皮肉なものでこのメールでのやりとりの後、桃田は予測できないさまざまな事を経験することになった。4年前の違法賭博の発覚。無期限の競技会出場停止処分。3年前の実戦復帰。2年前の世界選手権優勝。女子選手とのスキャンダル。そして今回の交通事故。これほど多くの背景を持ちながら初のオリンピック(五輪)を迎える選手も珍しいのではないだろうか。

日本のスポーツ報道、特に五輪においては選手が持つ物語に重点が置かれ、その物語を元に感動を求めようとする傾向がある。活躍の裏で実はこんな苦労があった、という内容のものだ。その意味で桃田は、東京五輪のヒーロー候補の筆頭候補だ。不運な交通事故を乗り越えた金メダル、というストーリーに期待が寄せられる。

だが、例えば桃田が相手の球を受けるために足を動かし、手を伸ばすその瞬間、賭博や交通事故のことなど考えもしないだろう。見る側も一緒ではないだろうか。無心で彼らの一挙手一投足を追わないと、大事な何かを見逃してしまう気がする。

プレーの細部にこそスポーツの面白さがある。それをあらためて教えてくれたのは、16年リオデジャネイロ五輪バドミントン女子ダブルスで金メダルを獲得したタカマツこと高橋礼華、松友美佐紀ペアだ。デンマークのリターユヒル、ペデルセン組との決勝では第3ゲーム、あと2点失えば終わりという16-19の窮地から5連続得点で逆転勝利を果たした。

五輪から約3カ月後、2人に動画を見返しながらその5点を振り返ってもらう機会を得た。繰り返し動画を見て、2人の判断と動きのすごさをある程度理解してインタビューに臨んだつもりだったが、彼女らの解説を聞きそれが浅はかだったと気付いた。相手ペアと自分たちの目、足の動き、スタミナ、ショットの精度、配球、あらゆる要素を頭で瞬時に判断しながらその都度最適の答えを見つけていく。2人が語るその過程は想像以上の高度なもので、聞きながらただただ感動した。逆に言えば、そうした知識なしで誰が見ても心奪われるのがタカマツの金メダルだった。前知識なくとも、動きを見るだけで心が動く。それがスポーツや五輪の素晴らしさの1つでもある。

桃田が世界一のプレーヤーであるのは、処分によって失意の時期を過ごし、ここまで努力を重ねてきているからにほかならない。ただ、彼がコートに立った時、激動の背景だけでなく、その素晴らしいプレーにフォーカスが当たることを願う。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

1月15日、マレーシアから帰国した桃田。眉間には生々しい傷痕が見られた
1月15日、マレーシアから帰国した桃田。眉間には生々しい傷痕が見られた