平野流佳(19=太成学院大)は3回とも転倒し、13・00で12位に終わった。平野は学業との両立を図りながら五輪の大舞台にたどり着いた。在学する太成学院大(堺市)にはスポーツ枠ではなく、オープンキャンパスに参加して一般推薦で入ったという。そのため遠征や合宿で通学できない期間も、単位を優遇されることはない。

平野が入学後に立ち上がったスキー部の顧問を務める高橋清教授(58)は「学生である以上、学業が1番になる。昔みたいにスポーツだけやっていればいいのではなく、今は厳しくなっているので、限られた時間でコツコツやるしかない」と語る。

ある日、オーストリア遠征中に連絡があったという。「宿舎にWi-Fiがなく、オンライン授業に出られません。どうしたらいいでしょうか」。帰国後の隔離期間を利用して、オンデマンドで授業を視聴。課題は必ず提出した。同教授は「朝起きたらすぐにスキー場に行き、日が沈むまで練習する生活ですから。非常に苦労したと思うが、隔離期間をうまく利用して勉強をしていました」と振り返る。1年時の前期は、単位を1つも落とすことがなかった。

00年秋の海外遠征で手首を骨折し、今もプレートが入ったまま。昨年3月には鎖骨を折った。ケガはつきものとはいえ、傷だらけの体にムチを打ち、五輪を目指してきた。

成長を見守ってきた高橋教授は、初めて会った時、こんな印象を抱いたという。

「シャイな、いい意味で普通の子。この子が本当に世界で活躍するのか、という感じでした。ただ芯は持っていて、真面目な子です」

ひたむきにコツコツと-。メダルは逃したが、派手に見えるスノーボードという競技で、地道な努力を重ねてきた。【益子浩一】