ロシアによるウクライナへの無差別攻撃が続く中、「共生」を理念に掲げる北京パラリンピックが開幕した。何という皮肉だろう。4日夜に開会式で行進する選手たちの笑顔をテレビで見たが、祝祭感や高揚感は湧いてこなかった。爆撃に逃げ惑う人々の映像や、原子力発電所が砲撃されたというニュースへの恐怖と緊張が、胸の中に広がっていたからだ。

開幕前日に、国際パラリンピック委員会(IPC)が、個人資格での参加を容認していたロシアと同国を支援するベラルーシの選手の出場を、一転して認めない決定を下した。理由は両国の参加に各国が猛反発したからだ。ロシア選手との対戦拒否を表明する国も出たという。参加を認めれば戦争まで容認したことになるということだろう。こんな不穏な空気の中で、試合に臨む選手たちが気の毒でならない。

五輪やパラリンピックは「スポーツを通じた平和の祭典」である。政治的に中立で、国家間の競争ではないと定義されている。しかし、世界の秩序を無視した非人道的な戦争を前に、その理想はもろかった。崇高な理念も、人間としての倫理観には勝てなかったということだろう。そして、スポーツはお互いの信頼関係がなければ成立しないという現実を、あらためて突きつけられた思いだ。

ロシアとベラルーシの選手団からは決定に抗議する声が上がっている。彼ら、彼女らも被害者なのだと思う。一方で、ロシアは昨年12月に国連総会で採択された大会期間中の「休戦決議」を破って侵略戦争を始めた。しかも、期間中の軍事侵攻は今回が3度目。大会から除外された選手たちの怒りの矛先は、プーチン政権へ向けられるべきではないか。

パラリンピックは第2次世界大戦で脊髄損傷を負った元兵士たちが、英国の病院でリハビリの一環としてアーチェリー大会を開催したのが起源。戦争や内戦で障がいを負った元兵士は、近年の大会にも数多く参加している。そんな歴史的な背景を踏まえて、IPCは「共生」の理念とともに、「反戦の祭典」としてのパラリンピックの存在意義も強く打ち出してほしい。

【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)