高木美帆(27=日体大職)がついに個人種目で金メダルを獲得した。

前回銅メダルの女子1000メートルで五輪記録を0秒37更新する、1分13秒19で優勝。500、1500メートル、団体追い抜きの銀に続く4個目のメダルは、18年平昌五輪の自身と98年長野五輪のジャンプで3個を獲得した船木和喜を上回り、1大会としては冬季五輪の日本最多。通算7個目のメダルも夏冬合わせた日本女子最多を更新した。

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内臓が悲鳴を上げている。限界を超えた7レース目。最後だからと高木美は奮い立つ。1周400メートルのリンク。「4周なら怖いけど、2周なら行ける」と自己暗示をかけた。

「胃で食事がうまく消化できない」という体調で、イメージしたのは500メートルの滑り。短中長、全ての距離を長年滑ってきた財産がある。2倍の距離を500メートルのスピードで閃光(せんこう)のように駆け抜けたゴールラインは、五輪最速だった。

バチンとたたいた両手を体いっぱい突き上げた。右拳を放り投げるようなガッツポーズ。そこから半周進み、15日の団体追い抜きで姉が転んでしまったコーナーでも小さく拳を握った。ヨハン・デビッド・ヘッドコーチと抱き合うと互いに「ありがとう」とだけ言い、後は涙だけで語り合った。

つらすぎる姉菜那の転倒からわずか2日。「気持ちの整理はついていない」。最終種目に向けて「他のことを考える余裕がなかった」ことが逆に奏功した。選手村では団体追い抜きのメンバー4人が同部屋。最終レースに向かう時、姉に「銀メダル4つでも快挙らしいよ」と言われ、少し笑えた。

失意のどん底にいた15日の夜。選手村へのバスで小平奈緒に言われた。「日本のパシュート(団体追い抜き)チームがいたから世界のレベルがここまで上がった。誇れることだよ」。高木美は「最後まで滑りきれなかった思いを前へ向けてくれる手助けになった」とライバルのひと言に感謝した。

10年バンクーバー五輪に中学3年で初出場してから「出られるレースには全て出る」のモットーを貫いた。しかし五輪で5種目は想像以上のダメージを受けた。団体追い抜きの後、それを如実に感じた。

「私、中堅なんで」

日体大1年の初め、スケート部でそう答えた。中学3年で五輪に出るも高校では国内外で秀でた成績は出せなかった。「出世争いに疲れた中年のようだった」と青柳徹監督は振り返る。14年ソチ五輪で落選。そこで生まれ変わる。「つらい練習はできればしたくない」と言いつつも、理想のオールラウンダーになるために苦しみ抜いた。

そしてたどり着いた五輪個人種目での金メダル。銀は3つも取った。記録ずくめにも「チームがあるからこそ最後まで戦えた。メダル数に特別な思いはありません」。女王は静かにほほ笑んだ。【三須一紀】

◆高木美帆(たかぎ・みほ)1994年(平6)5月22日、北海道中川郡生まれ。5歳からスケートを始め、09年バンクーバー五輪代表選考会で、1500メートルを中学新で初優勝。1000、1500メートル、団体追い抜きの代表となり、スピードスケート史上最年少代表となった。17年世界スピードスケート選手権で総合銅メダル。18年平昌五輪団体追い抜き金メダル、1500メートル銀メダル、1000メートル銅メダルと3個のメダルを獲得した。18年世界スピードスケート選手権総合優勝。7歳で始めたサッカーでも、U-15代表合宿に参加した腕前だった。164センチ、58キロ。

◆冬季五輪スピードスケート日本女子で短距離と中長距離の種目を兼ねた選手 500、1000、1500、3000、5000メートル個人5種目に出場したのは橋本聖子ただ1人。88年カルガリー、92年アルベールビル五輪と、2大会連続で5種目に出場。カルガリー五輪では全種目で日本新をマークして入賞。アルベールビル五輪の1500メートルでは銅メダルを獲得した。84年サラエボ五輪では、女子に5000メートルがなかったが、橋本は全4種目に出場している。ほかに全4種目に出場した日本女子は、60年スコーバレー五輪で鷹野淑子、高見沢初枝ら5人。06年トリノ五輪では、田畑真紀が、500メートルを除いた個人4種目と団体追い抜きの5種目に出場した。