金メダルを逃した男たちが、40年の時を経て日本スポーツ界を引っ張る。日本がボイコットした80年モスクワ五輪、有力候補だった選手たちは今、20年東京五輪に向けて重要な仕事を任される。日本オリンピック委員会(JOC)選手強化本部長の柔道・山下泰裕氏(60)、日体大学長の体操・具志堅幸司氏(60)…。日本五輪史に残る「ボイコット」の経験が、3年後への思いをより強く、熱くしている。

山下泰裕氏(モスクワ五輪当時23=東海大大学院)
山下泰裕氏(モスクワ五輪当時23=東海大大学院)

 「東京五輪に向けて完全燃焼。燃え尽きる覚悟でやる」。今年7月、JOC選手強化本部長に就任した山下氏の表情には、鬼気迫るものがあった。64年以来半世紀ぶりに日本で迎える夏季大会の「顔」には、金メダル確実といわれた五輪を逃した苦い経験がある。

 80年4月21日、山下氏は都内での「選手、強化コーチ緊急会議」で、JOCに対し「五輪に出たい」と訴えた。レスリングの高田氏は「何のために練習してきたのか…」と涙した。しかし、訴えは実らず辞退の流れは変わらなかった。

 4年後のロス五輪、山下氏は負傷をおして金メダルを獲得、1度競技を離れた高田氏も復帰して銅メダルを獲得した。そして今、2人は20年東京五輪を目指すJOCを引っ張る。選手強化本部長の山下氏と副本部長の高田氏。「ボイコットがなければ(モントリオール大会に続く)2個目の金を手に引退するつもりだった。そうしたら、今のこの立場にはいないよ」。リオデジャネイロ五輪で日本選手団の総監督も務めた高田氏は静かに振り返った。

高田裕司氏(モスクワ五輪当時26=日体大トレーニングセンター)
高田裕司氏(モスクワ五輪当時26=日体大トレーニングセンター)

 山下氏とともにロスで金メダルに輝いた「幻のモスクワ五輪組」は体操の具志堅氏とレスリングの富山氏、射撃の蒲池氏(故人)。「直後は体操する気もおきずに、テニスや相撲をしていた。新宿のコマ劇場にも通った」と具志堅氏。富山氏も「1年間はマットに上がらなかった。気力も何もかも失った」と話す。

富山英明氏(モスクワ五輪当時22=日大総合科学研究所)
富山英明氏(モスクワ五輪当時22=日大総合科学研究所)

 通常なら4年なのに、2人は8年間の思いを胸に世界王者になった。具志堅氏はコマ劇場で見た北島三郎の芸にヒントを得て「観客に見せる体操」で頂点に立った。富山氏は周囲からの「もう終わった」という声に発奮して金メダルにたどりついた。ボイコットによって金メダルを奪われた選手たちは、強くなって4年後に夢を成就させた。

具志堅幸司氏(モスクワ五輪当時23=日体大研究生)
具志堅幸司氏(モスクワ五輪当時23=日体大研究生)

 具志堅氏は日体大教授となり、内村航平ら多くの選手を育てた。今春からは学長として日体大を率い、東京五輪・パラリンピックに70人の選手を送り込むことを目指す。「4年後に金メダルは取れたけど、モスクワに出られなかった事実は変わらない」と同氏。誰よりも五輪の重要性を知るからこそ、東京五輪前に重責を担った。富山氏も日大教授となり、日本協会の強化委員長などを歴任。14年には世界レスリング連合(UWW)理事に就任、東京五輪へ競技の先頭に立つ。

 日本陸上競技連盟マラソン強化戦略プロジェクトチームの瀬古リーダーは、モスクワ五輪を前に「金メダル確実」といわれた。「自信もあったし、とるものだと思っていた」。しかし、最大のチャンスを失い、4年後のロスは14位。さらに、最後の五輪となった88年ソウルは9位。結局、入賞にも届かなかった。

 ソウルの沿道には、山下氏と具志堅氏がいたが、同じ「幻の金メダル候補」の声援に応えることはできなかった。マラソン強化の先頭に立ち「(東京では)円谷さん(64年東京五輪銅)以来のメダル獲得を」と話す同氏は「五輪のチャンスは1回だけ。次があると思ってはダメなんだ」と、自身の経験を胸に力を込める。

瀬古利彦氏(モスクワ五輪当時24=エスビー食品)
瀬古利彦氏(モスクワ五輪当時24=エスビー食品)

 「過去を振り返るのではなく、未来を見ないと」と山下氏は言う。かつて政府の圧力に屈したJOCに五輪を奪われたが、今はそのJOCのリーダーとして、複雑な思いはあるだろう。だからこそ声を大にしていう。「社会の中でスポーツの価値を高めること。それが最も大切だと思う」。20年五輪での金メダル量産を託された山下氏が見つめるのは、その先にある未来。政治に夢をつぶされた山下氏ら「幻のモスクワ組」だからこそ、政治に流されない強い日本スポーツ界作りへの熱い思いがある。【荻島弘一】


<モスクワ参加なら>

 ★小学生オリンピアン 競泳女子平泳ぎで秋田市立川尻小6年の長崎宏子(秋田AC)が11歳で代表に。出場していれば夏季大会日本初の小学生代表だった。

 ★マラソン表彰台独占 瀬古利彦と宗兄弟の最強トリオが代表。特に78、79年と福岡国際を連覇した瀬古は金メダル最有力といわれた。選考レースで瀬古と競り合った宗兄弟も世界トップの実力を誇っていた。

 ★男子体操団体6連覇 60年ローマから76年モントリオールまで5連覇中。76年大会で新月面宙返りを成功させた梶山広司を中心に6連覇が狙えた。

 ★女子バレーボール連覇 前回大会控えだった横山樹理がエースに成長。78年世界選手権銀メダルで、モスクワでは団体球技初の連覇が期待されていた。横山は2年後の82年に引退。

 ★レスリングの重量級金メダリスト誕生 フリー100キロ級の谷津嘉章はアジア大会で優勝など歴代重量級最強といわれ、金メダルが期待されていた。五輪の夢ついえプロレス転向。

 ★レスリング2人が連覇 モントリオール五輪金のフリー52キロ級の高田裕司と同74キロ級の伊達治一郎はともに連覇の可能性が高かったが、実現しなかった。

 ★柔道の山下が五輪金デビュー 山下泰裕が95キロ超級と無差別級の代表に選出された。全日本選手権4連覇、前年の世界王者で金確実だった。78キロ級で世界選手権4連覇の藤猪省三も金メダル確実だった。ケガに泣いた76年大会に続いて出場かなわず、対外国選手無敗のまま引退した。


<1984ロスの感激 連続出場は50人>

 JOCの「モスクワ五輪代表」148選手のうち、次の84年ロサンゼルス五輪に出場したのは50人だけ。企業の支援も少ない時代で、競技を続ける環境も整わないため引退も早かった。特に女子は38人中8人しかロスに出ていない。多くの選手に「4年後」は来なかった。

 しかし、苦難を乗り越えた選手は強かった。50人のうち半数近い23人が入賞以上。13人がメダルを手にした。ロス五輪の金メダル10個のうち、半分の5個はモスクワ組が獲得(具志堅氏が2個)。銀メダルも8個のうち4個をとった。メダルにたどりついた多くのモスクワ組は、競技を続けるために助手や研究生として大学に残った。そのまま指導者となり、競技団体の役員となり、日本を引っ張る立場となった。それがこの世代。長い長い4年間を経験したからこそ、今の役割があるともいえる。


 ◆モスクワ五輪 1980年7月19日~8月3日にモスクワで開催された。前年12月のソ連軍によるアフガニスタン侵攻への対抗措置として米国、日本、西ドイツなど50カ国近くが不参加。開会式の入場行進に参加した国と地域は81で、前回76年モントリオール大会の88を下回った(当時のIOC加盟国・地域は145)。参加選手数も前回の6026人から5217人に激減。21競技204種目が実施され、ソ連が80個(1位)、東ドイツが47個(2位)の金メダルを獲得し、2カ国で全体の60%を占めた。