2020年東京オリンピック(五輪)・パラリンピックが迫る-。東京五輪開会式まで24日であと2年、大会組織委員会の森喜朗会長(81)が、日刊スポーツ新聞社のインタビューに答えた。平和の大切さ、開会式の仕掛け、新しい競技への期待、熱い思いを明かした。13年9月に東京開催が決まり、14年1月に発足した組織委員会。準備期間の7割が終わって、いよいよ大会の全貌が見えてきた。【聞き手=三須一紀、荻島弘一】

 -いよいよ開幕まであと2年と迫りました

 あっという間だよ。ここまで5年、山あり、谷ありだった。最初は批判も多かった。復興で五輪どころじゃないとも言われた。それでも、だんだん盛り上がって批判も少なくなった。

 -具体的に見えてくると早いですね

 (窓の外を見ながら)あのビルも工事が遅いと思った。でも、ある時からは早い早い。外で組んで持ってくるから、あれよあれよ。東京大会もビルの骨組みができてきた。それで「こりゃ楽しみだ」となる。

 -最近だけでも、だいぶ目に見えてきました

 聖火リレーは2年かかったけれど、これで各県とも「参加できる」となる。子どもたちが選んだマスコットやチケットの値段も発表した。意外と安くて8000円以下が多い。子どもや高齢者、障がい者には2020円のチケットもある。

 -五輪の原点は平和。スポーツ行政の先頭に立ち、首相も経験した観点からあらためて「平和とスポーツ」をどう考えますか

 国と国、民族と民族が争うのが戦争。平和でなければ、そこの選手は五輪に参加できない。だから国連決議で採択する「五輪休戦」がある。それぐらい誰もが平和でなければならないと思っている。

 人間である以上、「戦う」が本能としてあるわけだけど、その「戦う」という心理を生かしたのが(戦争ではなく)ルールのあるスポーツだ。サッカーのロシア・ワールドカップを見ても、選手だけの大会ではなくサポーターもチームの構成員になっている。あれだけ激しく戦った後も観客同士、握手し、自分の国を思う。自国を思うということは、他の国も良くならないといけないわけで、だから、スポーツと平和とは関連性がある。相手がいなかったら試合ができないわけだから。

 -成熟国家となった日本が20年大会で、どのような平和のメッセージが発信できると思いますか

 世界中を相手にして1945年(第2次世界大戦)に敗れた。その結果、アメリカを中心に諸外国のさまざまな協力があって日本の今がある。私は終戦時、小学校2年生だった。それから今まで生きてきて平和の尊さを感じる。平和だから世界との友好関係を保てる。多くの国から支援をしてもらって国がここまで発展する。今度は日本が得た利益を、いろんな機会を通じて、世界に施していく。良い循環になっている。

 戦争に敗れ日本に目が向いていなかった時に五輪をやって、世界をびっくりさせた。あれから56年、ここまで平和で来られた日本の成果を世界の皆さんに見ていただきたい。そういう気持ちじゃないかな。

 そこに今回は東北の震災があった。それを無視して、日本が豊かで平和になったから世界に見てくださいでは、日本人は納得できない。東北3県に対して、世界は大きな協力をしてくれた。おかげでここまで来たんだという感謝を見せようという姿勢から五輪招致は始まった。

 -メッセージを直接表現できるのが開閉会式ですが、どのようになってほしいですか

 北京、ロンドン、ソチ、リオデジャネイロ大会を見ても、大勢の人がショーをやって、花火がババババッと上がっていた。個人的意見は言ってはいけないが、あえて言うなら、これまでとは少し変えて「えっ」と思うようなものにできたら。

 五輪とパラの開閉会式、4部作品に、つながる精神が流れていた方がいい。有識者懇談会で「平和」「共生」「復興」「未来」「日本・東京」「アスリート」「参画」「ワクワク感・ドキドキ感」という8つのテーマを決めた。日本らしさといえばすぐに富士山、芸者姿などが出てくるが、そうではないとも思う。

 リオ五輪のハンドオーバーセレモニー(引き継ぎ式)では、いろいろ考えた。一言で日本を表現できる「ミスタージャパン」がなかなか見つからなかった。(野球の)長嶋さん、王さん、松井がそうだという人もいたが、五輪には近くないとの意見もあった。そこで「日本の総理大臣」ではどうかと思いついた。

 (マリオになった)安倍総理が一時的に土管に入るのは、SPがみんな反対した。SPの視界から消えるから。その難しい調整を全て行ったのは(昨年亡くなった)平山くん(平山哲也・組織委役員室長)だった。ブラジルには多くの日本人が移住して、農業発展に貢献した。そこに日本の総理があのように出てきたら喜んでくれた。

 ◆森喜朗(もり・よしろう)1937年(昭12)7月14日、石川県生まれ。高校までラグビー選手。早大卒。産経新聞社、議員秘書を経て69年の衆院選で初当選。83年に中曽根内閣時に文部相として初入閣。死去した小渕元首相の後継として、00~01年に首相。首相時に沖縄サミットを実施した。衆院議員を14期務め、12年に国会議員から引退。日本体育協会(現日本スポーツ協会)会長、日本ラグビー協会会長などを歴任。13年9月の東京五輪・パラリンピック開催決定を受け、14年に大会組織委員会会長に就任した。