英国のストーク・マンデビル病院の故ルートビヒ・グットマン医師は、「パラリンピックの父」と呼ばれています。第2次世界大戦で脊髄損傷の重傷を負った兵士の治療と社会復帰のために、英国政府は1944年に同病院に脊髄損傷科を開設しました。そこに配属されたのがグットマン医師でした。

 グットマン医師はリハビリ治療にスポーツを取り入れ、48年のロンドン五輪開催に合わせて、病院内でアーチェリー大会を開催しました。これがパラリンピックの原点です。大会は毎年行われ、53年には130人が参加する国際大会に成長。60年に五輪開催地のローマで開催された大会が第1回のパラリンピックです。

 日本にも「パラリンピックの父」がいます。国立別府病院の医師だった故中村裕氏です。中村氏は60年にストーク・マンデビル病院に留学。「失われたものを数えるな。残ったものを最大限に生かせ」というグットマン医師の教えに影響を受け、62年に日本の患者を連れてストーク・マンデビル大会に初参加。その後、64年東京パラリンピック招致に尽力し、日本選手団の団長も務めました。

 中村氏は東京大会後、大分県別府市に障がい者の働く場「太陽の家」を設立。81年には世界初の車いす単独のマラソン「大分国際車いすマラソン」の開催も実現させるなど、日本の障がい者スポーツの発展をけん引しました。(2015年5月27日本紙掲載)