<北京五輪ケイリン銅 永井清史(33)>

 僕は、04年のアテネ五輪直前で代表メンバーから落選しました。当時はタイムも出ていたので本当に悔しかった。「もう競技なんてやるものか」と、2年くらい競技から離れていた時期がありました。そんな僕がメダルを取れたのは、日本代表のテクニカル・ディレクター(TD)を務めたフレデリック・マニエの指導のおかげなんです。

 高校から始めた自転車競技でジュニアの世界大会に出られるようになり、200メートルでジュニアの世界タイ記録を出したことで、世界中の若い選手が集まってくるスイスの世界自転車競技センター(WCC)へ留学することができました。そのWCCで教えてくれた人がマニエでした。競技から離れていた時に北京五輪を目指す代表チームの体制が一新、マニエが日本のTDに就任しました。そして、当時の監督に誘われ、代表復帰を決めたんです。

 彼には常に「お前はケイリンでメダルを取れ ! 」と言われ続けていましたし、僕もケイリン1本に目標を絞っていました。1日1走の競輪とは違い、ケイリンは約3時間のうちに最低で3本、敗者復活戦も走れば4本もレースをします。なので、最後まで体力を保つことと、レースでは常に先頭に立ってスピードをキープする「逃げ」の力を鍛えました。そのための練習は1000メートルと500メートルをもがくばかり。回復力を鍛えるため、全力で走った後の休憩はたった15分。ローラー台にも乗らず、疲労した筋肉を回復させる訓練でした。これは相当きつかったです。

 五輪に出場した時は「もう死んでもいい」「転んでもいい」というつもりでした。アテネの悔しさがあったから、余計にそう思いましたね。

 日本人として初めての決勝戦でしたが、緊張はありませんでした。前に出た時点でクリス・ホイに合わせて踏んでやろうと思っていましたが、結果的に合わせ切れず、ホイの後ろに入ってレースは残り1周。「このままなら銀メダルだ」と頭をよぎりました。でも、最後はロス・エドガーにも抜かれて銅メダル。そのエドガーはWCCの同期でした。ああ、そういう運命もあるんだなって思いましたね。表彰台に乗ったときはまだ信じられなかったですが、帰国した時の人の多さと、盛り上がりは本当にすごかったです。

 僕はまだ20年の東京五輪出場を諦めていません。チャンスがある限り、挑戦したいと思います。ただ「東京五輪」なら、競技会場は東京に造ってほしかった。修善寺のベロドロームもいい施設ですが、やはり東京から距離があるし、見る人が限られる。五輪なので多くの人に自転車競技を見てもらいたいです。

(2017年3月8日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。