【苦悩】「平安があるのは川口のおかげ」…未勝利で引退/龍谷大平安・川口知哉〈2〉

龍谷大平安(京都)の師弟がこの春、立場を変えてセンバツに臨みます。原田英彦監督(62)と川口知哉コーチ(43)です。1997年夏の甲子園でエース川口は大会全6試合完投で準優勝の立役者となり、同年秋にオリックス1位でプロへ。だが結果を残せず、未勝利のまま04年に引退。その後、女子プロ野球の指導や会社の営業職で奮闘する姿を見守り続けた恩師の尽力で昨年4月、野球部コーチとして母校に戻りました。不運が続いてもまっとうな生き方を貫いた左腕が違う立場で監督を支え、平安の球史をつないでいきます。5回連載の第2話。(敬称略)

高校野球

原田監督 グラブ渡され悟る

2004年の12球団トライアウトが終わったころだった。龍谷大平安(京都)を率いる原田英彦のもとに、かつてのエース川口知哉がやってきた。

97年ドラフト1位で入団したオリックスで力を発揮できず、未勝利のまま04年で戦力外に。トライアウトでも、他球団から声はかからなかった。

行く末を心配する原田に、川口は持参したグラブを差し出した。

原田監督さん、グラブ使いますか? おう、使うよ。じゃあこれ、使って下さいってぽんと置いて行きよった。

グラブの背番号68の刺しゅうを見たとき、原田は川口の決断を知った。

7年前の秋、川口はドラフトの目玉だった。速球と独特の落差の大きなカーブの組み合わせで三振の山を築き、平安(当時)を夏の甲子園準優勝までけん引。

のちにともに阪神のエースとなった水戸商(茨城)・井川慶、鳥取城北・能見篤史と「高校生左腕3羽がらす」と呼ばれるも、実績、知名度は川口が抜きんでていた。

オリックス、近鉄、ヤクルト、横浜(DeNA)が指命し、オリックスが交渉権を引き当てた。華やかな船出だった。だが、余韻は長くは続かなかった。

オリックス新人入団発表で手を合わせる(左から)永田能隆、杉本潔彦、前田和之、仰木監督、川口知哉、前田浩継、高橋信夫=1997年12月

オリックス新人入団発表で手を合わせる(左から)永田能隆、杉本潔彦、前田和之、仰木監督、川口知哉、前田浩継、高橋信夫=1997年12月

プロ1年目はウエスタンリーグ8試合に投げただけ。10回1/3で0勝1敗、防御率は8・71に終わった。

2年目の春、原田はオープン戦を見に西京極(わかさスタジアム京都)に出向いた。試合前の川口のブルペン投球に、原田はがくぜんとした。

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古代の王国トロイを発見したシュリーマンにあこがれ、考古学者を目指して西洋史学科に入学するも、発掘現場の過酷な環境に耐えられないと自主判断し、早々と断念。
似ても似つかない仕事に就き、複数のプロ野球球団、アマ野球、宝塚歌劇団、映画などを担当。
トロイの 木馬発見! とまではいかなくても、いくつかの後世に残したい出来事に出会いました。それらを記事として書き残すことで、のちの人々が知ってくれたらありがたいな、と思う毎日です。