ガウン姿で手を振った石原裕次郎 あまりに劇的だった生還までの129日間/上

昭和を代表する映画スター石原裕次郎さん。デビュー映画「太陽の季節」や「嵐を呼ぶ男」で時代の象徴となり、「黒部の太陽」「富士山頂」など骨太な作品を映画史に残した。テレビドラマでも「太陽にほえろ」「西部警察」で印象的な場面を描き続けた。そして誰もが忘れられないのは…。1981年(昭56)6月21日、入院中の東京・信濃町の慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った。解離性大動脈瘤(りゅう)と闘った入院期間は同年春から夏の終わり。あまりに劇的な129日間を、日刊スポーツで振り返ります。全3回の上編です。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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奇跡の生還、あまりに有名なシーン

1981年6月22日付19面。慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った

1981年6月22日付19面。慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った

手術の成功率は3%、5%…日本中が祈った1981年

裕次郎さんが倒れたのは1981年4月25日。事実が公表されたのは3日後で、日刊スポーツは4月29日付の芸能面に「石原裕次郎が重体」の5段見出しで、次のように書き出している(年齢など当時)。

映画俳優・石原裕次郎(46)が、胸部動脈瘤破裂の疑いで、重体となった。28日、入院先の東京・信濃町の慶応病院で明らかになったもので、さる25日夕方、テレビ朝日のレギュラードラマ「西部警察」の撮影終了後、胸の痛みを訴え、救急車で隠密裏に同病院に入院していた。

発覚までの2日間、裕次郎さんがイベント出演をキャンセルするなどしたことから、水面下ではマスコミ各社が取材を開始していた。裕次郎さんが率いた石原プロモーションも患者名を「下山」と仮名を使うなどしたが、隠しきれない状況になると、番頭格の小林正彦専務が「絶対安静の状態で入院」と公表に踏み切った。ただし、「新聞記者が見つけたか」「酒は飲めるかな」など軽口がきけているとも説明した。

1981年4月29日、石原裕次郎の容体についての記者会見に100人近くの報道陣が集まった。記者会見する主治医の井上正心臓外科教授(奥)、右手前は石原プロ小林正彦専務、左で手をあげているのは梨元勝リポーター

1981年4月29日、石原裕次郎の容体についての記者会見に100人近くの報道陣が集まった。記者会見する主治医の井上正心臓外科教授(奥)、右手前は石原プロ小林正彦専務、左で手をあげているのは梨元勝リポーター

事態が深刻化して広がるのを避けたかった小林専務流の配慮だったろうが、面会できるのは元女優北原三枝の三枝夫人(当時の表記、本名石原まき子さん)と実兄の石原慎太郎衆院議員だけだった。その慎太郎氏も裕次郎さんの異変の知らせに、滞在先の小笠原諸島・父島から自衛隊機で厚木基地に降り立ったのが深刻さを物語った。公私混同との批判から、防衛庁長官(当時)が釈明する事態にもなった。当時の紙面に、慎太郎氏の秘書のコメントが掲載されている。「民間機を八方手を尽くして探したがなく、防衛庁に問い合わせたら、たまたま訓練飛行があったにすぎない。代議士は『とにかく死に目に会いたい』という気持ちでいっぱいのようでした」。

主治医で同病院の井上正心臓外科教授は、症状は小康状態でICUで推移を見守るとの方針を示した。急変して緊急手術したのは5月7日。翌8日付1面の書き出しは-。

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編集委員

久我悟Satoru Kuga

Okayama

1967年生まれ、岡山県出身。1990年入社。
整理部を経て93年秋から芸能記者、98年秋から野球記者に。西武、メジャーリーグ、高校野球などを取材して、2005年に球団1年目の楽天の97敗を見届けたのを最後に芸能デスクに。
静岡支局長、文化社会部長を務め、最近は中学硬式野球の特集ページを編集している。